
25 Aug 2019
イザヤ28:14-22, ヘブライ12:18-19,22-29, ルカ13:22-30
小学校低学年の頃の話ですが、私は、週末になると、自分が住んでいた川崎市多摩区の菅のアパートから、東京都稲城市の東長沼にある祖母の家に行き、そこで一泊して、翌日の夕方に帰ってくるという生活をしていました。毎週、南武線というローカル線で二駅の距離を自転車で走って、祖母の家まで行っていました。
多摩地域は梨の産地で、私が住んでいたアパートの周辺にも、そして祖母の家の近所にも、たくさんの梨畑がありました。小学校の2年か、3年の時のことだったと思うのですが、秋のある週末、まさに梨の収穫の季節です、いつものように自転車で祖母の家に向かいました。そして祖母の家から3、4百メートル手前の梨畑の前を通りかかった時、大きな梨が一つ、梨畑を囲っているネットの外側に、ヒョッコリと顔を出しているのを目にしました。
自転車でそこに行ってみると、大きな梨はすぐ目の前に、自転車から降りなくても手が届く所にあるではありませんか!私は自転車に乗ったまま、その大きな梨に手を伸ばしました。ところが、私の目は大きな梨に完全に釘付けになっていて、梨に手を伸ばしている私を、近くで見ている人がいることに気づきませんでした。梨に手が届いて、梨をまさにもぎ取ろうとする、まさにその瞬間、「ちょっと、ボク!」という女性の声が響きました。その声に、私は心臓が飛び出すかと思うほど驚きました。
声の方に顔を向けると、30代後半から40代前半かと思われる女性が立っていて、私の目をジッと見ながら、「ちょっとこっちにいらっしゃい」と言いました。すごすごとその女性についていくと、梨園の販売所のところに連れて行かれて、小さなテーブルの前に座らせられました。
私は瞬時に、これから自分の身におこるであろうことを想像しました。こっぴどく怒られることは間違いない。母親か祖母に電話も行くだろう。家の電話番号を覚えていないと嘘をついたら、むしろ、警察を呼ばれることになって、さらに事が大きくなるだろう。そんなことを考えていました。
ところが、私をしょっ引いた女性は、この後、私がまったく想像していない行動に出ました。彼女は、梨の販売所のところにいた初老の女性に向かって、こう言ったのです。「おかあさん、この子に梨を剥いてあげて。」私を犯行現場で捕らえたこの女性は、きっと、この梨園にお嫁に来た方だったのでしょう。
私はその言葉に驚いて、口をポカンと空いたまま固まってしまいました。そこに追い打ちをかけるように、彼女は私に言いました。「今度、梨が食べたくなったら、ちゃんと言いなさい。黙って取っちゃだめ。」
私がその後なんと答えたのか、まったく覚えていません。ただ、「本当は、梨が食べたかったんじゃなくて、梨を取ってみたかったんです」とは言えなかったことは、よく覚えています。私は、自分のために皮を剥かれ、お皿に乗せられて出てきた、みずみずしくて甘い立派な梨を、大慌てで全部食べて、お礼を言って、平謝りに謝って、梨園を後にしました。
福音書の中で、イエス様が激しい言葉を浴びせ、滅びすら宣告する相手は、「自分は救われる」、「自分は神の国に入れる」、そう思っている人々です。しかしイエス様は、「自分は大丈夫」と思っている者たちを皆、神の国から締め出します。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
イエス様がそう言うのを聞いている人たちは、自分たちは狭い戸口から入って、救いに至ると思っています。しかしイエス様は、彼らを閉じられた戸の外に追い出します。
「28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。」
イエス様がその到来を宣べ伝える神の国の最大の逆説は、入ろうと思っている者たち、入れると思っている者たち、そして入れると思われている人々が、皆締め出されて、入ろうと思っていない者たち、入れないと思われている者たち、そして自分は入れないと思っている者たちが、神の国の中に「入れられる」ということです。
イエス様が神の国に入るための条件、あるいは基準として語っていることをから判断すれば、神の国は無人のはずです。神の国に入るための基準を満たす人間は、この世に一人として存在しないからです。
十二使徒たちですら、イエス様に最後まで従うことはできませんでした。その時点ですでに、神の国に入るための基準を満たしていないわけです。ですから、誰も神の国には入れない。それが、厳密にイエス様の基準に従って、人を測ったときに導き出される結論です。
ころがどういうわけか、神の国に「入れられている」者たちがいるのです。しかも、それは、神の国に入ろうと思っていない者たちであり、神の国に入れないと思っている者たちであり、そして「自分は入れる」と思っている人々から、「あいつらは入れない」と思われている者たちなのです。
イエス様の基準に従えば、誰も入れない神の国。入ろうと思う者が入れず、入れないと思っている者しか「入れられない」神の国。これは一体、どういうことなのでしょうか?それは多分、こういうことではないでしょうか。
私たち罪人は本来、誰も神の国に入れません。自分で自分を救い得る者は誰もいません。しかし神は、ご自分の愛と恵みと憐れみによって、すべての者を神の国に招き入れ、救いを与えられます。人は神から、受けるに値しない愛と恵みと憐れみを受けて、神の国の民とされ、救いを得ているのです。
受けるに値しない恩恵を受けた者が感じるのは、感謝であり、そして感謝は人を謙遜にします。
梨園のあの女性は、罪人の少年に、一方的な恵みと憐れみとを示しました。受けるに値しない恵みと憐れみとを受けた悪童は、そのとき初めて謙遜の意味を学びました。
恵みと憐れみとが、人を感謝の想いに満たし、この感謝は誇りを、プライドを一掃し、謙遜にします。反対に、自分は神の前に正しく歩み、それ故、自分は救われている、自分は神の国に入っている、そう思う時、人は、自分を「救われるに値する者」、「神の国に入る資格のある者」とみなします。
その時に心を満たすのは「自分への誇り」であり、このプライドが、人を、神の愛と恵みと憐れみに対して閉ざしてしまいます。その結果として、人は自分で自分を、神の国の外に、救いの外に置くのではないでしょうか?
神の国は、救いは、あの日の塚田重太郎少年の前に差し出された、甘く、みずみずしい、高価な梨のようなものです。私には、それを受けるなんの理由もありませんでした。私は、それを受けるに値しませんでした。あの高価な梨は、純粋な恩恵でした。そして純粋な恩恵によって私の心を満たしたものは、単純な、純粋な感謝でした。
神がイエス・キリストを通して与える純粋な恩恵は、あの高価な梨よりも、はるかに高価な、復活の命であり、神の国であり、救いです。
私たちは、受けるに値しない愛と恵みと憐れみを受け、そして神の国を与えられました。この愛の故に、この恵みの故に、この憐れみの故に、この朝再び、私たちの心が、主への感謝に満たされますように。
アーメン。