
Sep. 1st.,
シラ 10:12-18; ヘブライ 13:1-8; ルカ 14:1, 7-14
今朝の福音書朗読の中には、ふたつの神の国の逆説が語られています。一つの逆説は、「11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という逆説であり、もう一つの逆説は、この世で報いられないことをすることが、神の祝福となるという逆説です。
今朝は特に、この世で報いられないことをすることが、神の祝福となるという、第2の逆説に焦点を当ててみたいと思います。
今日の福音書朗読の中で、イエス様を食事に招いたのは「ファリサイ派の議員」、つまりユダヤ人社会のリーダーの一人でした。この食事会の出席者も皆、イエス様を除いて、ユダヤ人社会の有力者だったはずです。イエス様は彼らに向かって、パーティーを開くときの注意点を伝えます。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」
「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人。」これらの人々は、ユダヤ人社会の中心に位置する神殿にも会堂にも受け入れられない人々でした。
彼らが神殿にも会堂にも受け入れられなかったのは、彼らは「けがれた者」と見なされていたからです。けがれた者は神にしりぞけられ、聖い者しか神に受け入れられない。これはユダヤ教信仰の核心です。ユダヤ人社会のエリートたちにとっての最重要課題は、けがれを避けて自らを聖く保つことでした。けがれは感染すると見なされていました。けがれた人や者に触れたなら、自分もけがれることになるわけです。ですから、ユダヤ人エリートたちにとって、「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を食事の席に招くなどということは、到底受け入れがたい話でした。
しかしイエス様は、「神に見捨てられた者」と見なされている人々を、食卓に招くようにと勧めます。彼らを食卓に招くべき理由は驚くべきものです。イエス様は、私たちが、この世で私たちに報いることのできない人々を食卓に招くことによって、復活のとき、神の国の完成のときに、祝福を受けると言うのです。
私たちの現実の生活は、誰とつながりがあると、自分のキャリアの助けになるか、自分の立場が有利になるか。そんな計算に満ち溢れています。しかし「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」を招けというイエス様の言葉は、教会は、そのような計算から自由になっていなくてはならないことを教えています。
教会の存在意義は、この世の成功を超える祝福を示すことにあります。しかし、そんなことは、世が見捨てた者たち、目も向けない者たちを食卓に招き、もてなすとき、神が祝福を注いでくださるという信仰無しには不可能です。
徳川支配が終わり、キリスト教の再宣教時代の幕が開くと、西洋からやって来た宣教師たちは、孤児院を作り、病院を作り、老人ホームを作り、幼稚園や学校を作りました。教会の始めた働きは、多くの人々の関心を惹き、そして「日本社会」に認められるようになりました。その結果、かつて教会によって始められた医療や福祉や教育の働きの大部分は、現在、教会以外の団体によって設立され、運営されています。
「それは素晴らしい!」そう思われる方もあるかもしれません。しかし、このような「発展」は、必ずしも、両手を挙げて喜べるものではないはずです。
宣教師たちは、孤児院や、病院や、学校を、営利を目的とした事業として展開しようとしたわけではありませんでした。彼らは、「神の国」を指し示す教会のミッションとして、これらの働きを立ち上げました。
しかし今や、教会が「神の国」の証しのために始めた働きの多くは、営利目的の事業に取って代わられました。そして営利事業の成功は、教会に「逆輸入」されます。まり、「教会もこの世の成功例に倣った方がいいのではないか」という誘惑に晒されるのです。
その最も典型的な例は、「ミッション・スクール」の経営に見られます。ミッション・スクールの成功は、日本社会におけるステータスと結びついてきました。
私は、皆さんの中にミッション・スクールの卒業生が沢山いることを知っています。今現在、ミッションスクールに通っている人も、ミッション・スクールで働いている人もいることを知っています。かく言う私の長男も、宣教師たちが作った、ベラボーに学費の高い学校に通っていました。
私は皆さんを批判するために、この話をするわけではありません。私たちは、キリストの弟子である以上、イエス様の言葉を、挑戦を避けて通るわけにはいきません。ですから、共に考えていただきたいのです。
「ミッション・スクール」が提供する「良い教育」は、日本社会におけるステータスを確保するための有効な手段として受け入れられるようになったわけです。しかしミッション・スクール以外の学校が台頭し、日本社会のエリートを輩出するようになると、生徒の獲得競争が始まり、教会のミッションは、経営の論理に飲み込まれていきます。生徒獲得競争においては、イエス・キリストも神の国も売りにはならないので、ミッション・スクールも、受験指導や進学実績で、他の学校と張り合うようになります。そのような中で、多くのミッション・スクールが、進学校化・受験校化に成功してきました。
しかし、日本社会における「ミッション・スクール」の「成功」は、「神の国を指し示す」という教会の使命との対立という、皮肉な結果をも引き起こしました。
「この世で私たちに報いることのできない者たちを食卓に招き、もてなすとき、神が祝福を注いでくださる。」
この神の国の逆説と、経済的に最も裕福な1%の家庭の子息しか入学を認められない学校を教会が経営することは、どのように相入れるでしょうか?もし教会が、この世の成功者の集まりで、この世の基準に従って、この世と同じ祝福しか与えないのなら、教会の存在意義はありません。
一人一台車を所有し、夏の休暇を海外の高級ホテルで過ごし、子どもたちを名門私立小学校に通わせるために共働きをする夫婦を「支える」ために、教会が保育サービスを提供することは、貧しい者に仕えることにはなりません。日曜学校の子どもたちを年に一度ディズニー・ランドに連れて行くことも、「子どもたちを受け入れよ」というイエス様の命令に応えることにはなりません。
グローバル経済の表面的豊かさの背後では、構造的搾取と深刻な環境破壊が進み、今まで人類が経験したことのない、まったく新しいタイプの貧しさ生み出しています。
私は答えを持っているわけではありません。しかし、巨大な挑戦が目の前にあることだけは分かっています。ですからこの朝、共に祈りたいのです。
願わくは、全く新しい貧困を生み出すようになったこの世界の中で、教会が、神の国の逆説を証しする、新たなミッションを見い出し、キリストの業を続けることができますように。