

08th Sep 2019
申命記 30:15-20; フィレモン 1:1-20; ルカ 14:25-33
費用を計算すること。それは私たちが毎日を「当たり前に」に過ごしていくために、もっとも重要なスキルでしょう。そして、コスト意識と倫理観は密接に繋がっています。だからこそ、コスト意識のない人間を指導的地位に据えることは、悲劇の始まりとなります。
1980年から1991年まで、元帝国海軍の士官たちとその直属の部下たちが、ほぼ毎月、旧海軍士官の社交クラブであった水交社の後継組織、水交会の神宮前事務所に集まっていました。
131回に渡って行われたこの極秘会合は「海軍反省会」と呼ばれ、カセットテープに収められた記録は400時間に及びます。「海軍反省会」の中で、戦争の道へと国を導いた当事者たちは、公に語ることのなかった、歴史の空白を埋める言葉を語っています。
経済規模が10倍で工業力においても遥かに先を行くアメリカと戦争をして、勝てるはずがないことは、小学生でもわかります。ではなぜ、日本の軍事エリートたちは、まったく勝ち目のない戦争に突き進んでいったのでしょうか?
日米開戦の半年前、1941年6月、「海軍国防政策委員会・第一委員会」は、「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」という機密報告書を作成しています。
時はまだ、日米交渉が暗礁に乗り上げるはるか以前のことです。それにも関わらず、この「第一委員会」による報告書は、海軍首脳部に対して「戦争の決意」を迫り、政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだと主張しています。
当時、日本は、石油需要の7割をアメリカからの輸入に依存していました。それはアメリカが石油の輸入を止めれば、日本は戦艦を動かすこともできなければ、戦闘機をとばすこともできないということです。
そんな状況の中で、「第一委員会」の報告書は、石油の備蓄が底を突く前に、開戦を急げと言っているのです。名目上、「第一委員会」は審議機関に過ぎないので、「報告書」は、国防計画や軍事作戦を立案し、総帥である天皇を補佐する、海軍の頭脳、軍令部に送られます。
しかし軍令部は、報告書の内容を検証することもせずに、アメリカとの開戦方針をアッサリと承認します。そして1941年9月6日の御前会議を経て、日本は勝ち目のない戦争へと突き進んで行くことになります。
ところが軍令部の決定に関わった多くの士官たちが、「海軍反省会」の中で、「戦争に反対だった」、「消極的だった」、海軍では「この戦いはやってはいけないとみんな言い合っていた」と主張します。
それでは、「戦争の決意」を迫り、政府や陸軍を「戦争決意の方向に誘導」すべきだと主張する第一委員会の報告書は一体なんだったのか。なぜ軍令部はこれをすんなり受け入れ、破滅的戦争への道を突き進んでいったのか。誰もがそう疑問に思うはずです。
この当然の疑問に対する、海軍士官とその部下たちの証言は、驚くべきものです。それは予算のためだったと言うのです。
「報告書」を作成した「第一委員会」の設置を提案した高田利種(としたね)元少将が、戦後、「報告書」の目的について、こう話しています。
「予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。。。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので、11月間際になって、本当に戦争をするのかしないのかともめたわけです。」
つまりこういうことです。日米の緊張が高まるほど、海軍は大きな予算を取ることができ、軍備を拡張できる。そして限界ギリギリのところでアメリカとの和平にこぎつける。それが報告書に隠された本来の目的であり、軍令部もそれを丸呑みし、海軍組織の拡大を目指したのです。
しかし計算が狂いました。日本が南インドシナへ軍を進めると、アメリカは態度を一気に硬化させ、交渉は頓挫します。
海軍中枢部の人間たちは、アメリカとの戦争に勝ち目がないことを知っていました。しかしアメリカとの緊張を煽ることで予算を拡大し、軍備を拡大してきた海軍が「戦えない」と言ったら、陸軍に突き上げられ、予算を減らされるかもしれない。今さら戦争はできないとは言えないので、開戦に踏み切った。
これが「海軍反省会」の記録から明らかになる、アメリカとの破滅的戦争に突き進んだ理由です。
3百10万人の日本人の命と、1千万人を超える植民地や諸外国の人々の命は、陸軍と海軍とのライバル関係の犠牲となったのです。
今朝の福音書朗読の中で、イエス様は、イエス様の弟子として生きていくためのコストを、事前に計算するようにと、群衆に向かって警告しています。
イエス様が弟子として支払うべきコストについて語るために用いている二つの例えが、軍事に結びついていることは注目に値します。監視塔の建設と、戦争か和平かの決断です。
ルカ福音書の著者は、使徒言行録の著者です。使徒言行録において、教会は経済共同体であり、クリスチャンという歩みと、教会を支えるために経済的犠牲を払うことは一つです。ですから、イエス様が弟子から要求するコストは、共同体の維持・存続とも結びついているわけです。
人々は、病気を治してもらいたいとか、エルサレム神殿をローマ軍から解放してほしいとか、満腹になるまで食べさせてほしいとか、それぞれの願い、あるいは期待をもってイエス様のところにやってきました。
しかしイエス様は、人々の欲するものを与える代わりに、むしろイエス様のミッションのために、神の国のために、私たちが支払うべきコストについて語ります。そして主は、私たちがキリストの弟子として生き、神の国のために支払うべきコストは、私たちの全てだと言うのです。
「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」
もちろんこの言葉は、話のポイントを明確にするための誇張方であって、文字通り、親や家族を憎むことがクリスチャンに求められているわけではありません。あなたを呪う者、あなたの右の頬を打つ者さえ愛するべきなら、あなたを養い、あなたに親切にしてくれる人を愛さない理由がどこにあるでしょう。
それでも、イエス様が弟子に要求するのは、その人の全てであることに変わりはありません。「神の国のために、家族を捨てなくてはならないかもしれない。時には、自分の命さえ危険に晒すことになるかもしれない。それでもわたしと共に歩むか。」イエス様は、私たちにそう問うているのです。
今、多くの教会が、存続の危機に晒されているのは、皆さんもご存知の通りです。この危機の原因として、様々なことが考えられると思います。しかし原因の一つは、多くの教会が、「コストを払う覚悟のあるクリスチャンを生み、育てることに失敗してきた」と言えるのではないでしょうか。
これまで幾度となく、教会の問題について話し合う様々な場面に居合わせてきました。しかし参加者が、自分の希望、自分の願い、自分の気持ちを言うことに終始することも少なくありません。
残念ながら私は、これまで一度も、神の国のミッションのために、自分たちはどんなコストを支払うべきかという議論を耳にしたことがありません。
しかし今朝の福音書でイエス様が警告しているように、クリスチャンという歩みには、支払うべき時間的コスト、経済的コスト、体力的コスト、精神的コストが伴っています。
友人からのゴルフの誘いを断って日曜日に礼拝に来るとか、1日3本飲みたい缶ビールを1本我慢して献金するとか、自分の子どもたちだけではなく教会の子どもたちも養うとか、お盆の短い休みを、日曜学校のキャンプために捧げてクタクタになるとか、そういう部分があるのです。
しかし、神の国のために払ったコストは、この世の利益にはならなくとも、私たちの思いを超える、この世は知らない、大きな祝福となって帰ってきます。
ですからぜひ、イエス様の弟子として歩み、教会の働きを支え、神の国の働きのために自分が支払うべきコストについて、今一度、祈り、思い巡らしてください。
願わくは、主が、十字架を負い、コストを払う覚悟のある弟子を教会に加えてくださいますように。また私たちを、そのような弟子として成長させてくださいますように。