聖霊降臨後第15主日 説教

22nd, Sep, 2019

アモス8:4-7; Iテモテ2:1-8; ルカ16:1-13

「そこでわたしはあなたたちに言おう。不正な世の富によって、自分たちのために、友を作りなさい。それが尽きた時、永遠の住処に迎え入れてもらうために。」

ルカ16章9節の言葉です。

福音書に記されたイエス様の言葉は、この世で富む者に対する警告に満ちています。

「25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(Lk 18:25)

という言葉は、最もよく知られた警告の一つです。

さらに、視点を新約聖書全体に広げてみても、この世の富を積み上げることについて肯定的に語っている箇所は一つとしてありません。例えば、ヤコブの手紙5章1節から3節にはこうあります。

1 富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。2 あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫が付き、3 金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。(Jm 5:1-3)

富の蓄積は、不正の蓄積無しには起こらず、自分のために蓄えることは、自分を神から引き離すことである。これは新約聖書の全体を貫く視点であり、イエス・キリストご自身の立場です。

この点において、イエス様の立場は、旧約聖書のいくつかの箇所に見られる、富の蓄積を「神の祝福」と見なす立場から断絶しています。

もちろん、旧約聖書のすべての書物が、富の蓄積を神の祝福と捉えているわけではありません。例えば、ヨブ記という書物は、この世の豊かさを神の祝福とする立場への、もっと熾烈な反論です。

イエス様にとって、不正でないこの世の富というのは無く、富はすべて罪の刻印を帯びています。

中学校や高校の世界史の教科書に、ホッブスとか、ジョン・ロックとか、ルソーとか、ヴォルテールといった人たちが出てきたのを覚えていらっしゃるでしょうか。彼らは皆、社会理論とか、政治理論と呼ばれる著作を残した人たちです。

その中の一人、ジョン・ロックは、『政治についての二つの論文」と題された著作の中で、財産について次のような議論を展開します。

「すべての人(man)は、自らの内に財産/資産を有する。」それは「彼自身の肉体の労働(であり)、その手の働きは彼のものである。」

「自然が与え、自然状態に残したものの中から、彼が労働と混ぜ合わせて(自然状態から)取り出し、それに彼自身のものを加えたなら、何であれ、それは彼の財産となる。」

「人が土地を耕し、植え、改良し、収穫し、そこからの産物を利用するなら、(その土地は)彼のものである。彼は、いわば、労働によって、共有状態にあったものを囲い込むのである。」

ここからロックは、驚くべき主張を始めます。「土地に、その価値の大部分を付与するのは、労働であり、労働を加えられない土地はほとんど何の価値もない。」

「自然と地面は、ほとんど無価値な素材を与えるに過ぎない。」

一見無機質で人畜無害にさえ思えるこの理論が、一体何を可能にしたのか、皆さんはお気づきでしょうか?

ロックによれば、アメリカ大陸は自然状態にあり、共有地であり、無価値であり、誰のものでもありません。なぜなら、アメリカ大陸の広大な土地は、土着のアメリカ人が、労働によって価値を与えることも、囲い込むこともしておらず、所有権を認める政府もないからです。

アメリカ大陸は誰の所有物でもないので、そこに渡っていったヨーロッパ人たちが、土地に労働を加え、自分たちの所有物としてもかまわない。ロックの「所有」に関する理論は、アメリカ大陸の侵略を正当化するための道具でもあったのです。

しかしアメリカ大陸をヨーロッパ人の所有物としたのが、銃の力であったことは歴然としています。暴力は、あらゆる所有の根元に隠れています。

創世記2章は、創世記1章と異なる視点から、世界と人の創造を描いています。神は人を創造し、エデンの園に置かれます。人はこの園の富によって養われますが、園の所有者ではありません。人は、エデンの園を整える庭師であり、園の富を管理する管理人に過ぎません。

「この世の富」は、管理人が所有者になろうとすることによって、私たちが「不正な管理人」となることによって生まれます。ですから、不正でない世の富というものはあり得ません。

私たちは、制度化された罪の中に囚われている。

このことに気づかない限り、イエス・キリストが語る神の国の解放の力にも気づきません。罪人であることを学ばない者は、神の国の働き人となることはないということです。

ルカ16章8節で、主人は「不正な会計士」を賞賛します。しかし主人がこの会計士を賞賛するのは、彼の不正のためではなく、彼の「巧妙さ」のためです。

私が「巧妙に」と訳し、新共同訳が「抜け目ない」と訳しているのは、ギリシア語の φρονίμως という言葉で、新約聖書全体の中で、このルカ16章8節にしか登場しません。φρονίμωςな者とは、原理・原則を現実の場面で応用して、目標に到達するための、実践的な知恵を持った人のことです。

イエス様は、目標を達成するための実践的知恵において、この世の子らは、光の子らよりも巧妙だ、実践的知恵に長けている。そう言います。

では、その目標とは何でしょうか?8節後半でイエス様が言っていることを逐次的に訳すと、このようになります。

「自分たちの同類について、この世の子たちは、光の子たちよりも巧妙だからである。」

「この世の子ら」と「光の子ら」に共通する目標は、「同類」を生み出すことです。しかし光の子らは、同類を生み出すことにおいて、この世の子らに劣っていると、イエス様は言っているわけです。

「10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」

「ごく小さな事」はこの世の富であり、「大きな事」は神の国です。光の子らは、自分のために不正な世の富を蓄積することをやめて、自分自身と、自分が所有する不正な富を、神の国のために用いる人々です。それは言わば、不正な世の富を、主人に返す人々のことです。

不正な富を、神の国のために用いる光の子らが、自分の同類を生み出さなければ、いずれ神の国のミッションは途絶えます。

その背後では、富に仕える者たちは同類を生み出し続け、無限の利益を求める金の亡者が世界をコントロールし、人々は金の奴隷として生きることを強いられるようになります。その現実を、「過労死」や「社畜」という言葉が当たり前に用いられるこの国に生きる私たちは、世界中の誰よりも知っているはずです。

イエス様は、世の子らの支配に対抗するために、世の富を賢く用いて、神の国のために働く同類を生み出せと、弟子たちに命じているのです。

私は、イエスの名を口にせず、神の国について何も語らない「宣教」を誇りとする「クリスチャン」が少なからずいることを知っています。イエスの名を口にせず、神の国の福音を語らない働きが、いかなる意味で「宣教」なのか、私にはわかりません。

しかし、私にわかっていることは、イエスの御名を語らない宣教を目指す教会も、同類を生み出す必要があるということです。そうしなければ、イエスの名を口にせず、神の国について何も語らない「宣教」の働きのために「派遣される」人間がいなくなるからです。

ですから、イエスの御名を宣べ伝えず、神の国の福音を語らない宣教を目指す「教会」も含めて、すべての教会は、この日の不正な管理人の譬えに聞く必要があります。

どのような「宣教」を目指すにしろ、「宣教」のために「遣わされていく同類」を生み出さなければ、目指す「宣教」の働きは途絶えるからです。

私たちは、自分のために蓄えることをやめ、不正なこの世の富を用いて、神の国のミッションに仕える同類を生み出すことによって、神の国に受け入れられます。

願わくは、主が私たちに、不正な世の富を用いて、神の国のために働く同類を効率的に生み出すための、実践的知恵を授けてくださいますように。