
29th Sep., 2019
アモス 6:1-7; I テモテ 6:11-19; ルカ 16:19-31
英国に本拠地を置く国際的チャリティー団体のOxfamは、昨年の6月、世界の富の分配に関する衝撃的な調査報告を発表しました。この報告によれば、超富裕層と言われる最も裕福な1%の人々が、世界の富の86%を所有しています。更に、この報告書は、超富裕層のたった4人が所有する富は、世界の最も貧しい半分の者たちの全財産よりも多いとも指摘しています。
現在世界人口は75億3千万と言われます。経済ピラミッドの下半分に、37億6千5百万人の貧しい人々がいます。このピラミッドの頂点に位置する裕福な4人が所有する富は、37億6千5百万人の貧しい人々が所有する富をすべて合わせたよりも多いのです。超富裕層による富の独占が拡大していることは、フランス人経済学者、Thomas Piketty による big data の分析によっても証明されています。
この現実は、教会に対して、特に、経済的に豊かなメンバーを抱える教会に対して、重大な問題を投げかけます。
ルカ6章20節、24節で、イエス様は弟子たちにこう語っています。
「20 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。21 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。(Lk 6:20, 24)」
この言葉に表されているように、イエス様は、自分が宣べ伝え、自分の働きによって到来しようとしている神の国において、この世の現実はすべてひっくり返されると確信していました。
イエス様が弟子たちに語った、貧しい者への祝福と、金持ちへの呪いとが、今朝の福音書朗読で読まれた金持ちとラザロの物語にそのまま反映しています。
金持ちの名前は記されていませんが、「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」という19節の言葉は、この金持ちを超富裕層に属する者として描いています。金持ちは、ラザロに対して、直接的に暴力を加えているわけではありません。ラザロに強制労働をさせているわけでもありません。ただ単に、この金持ちの目には、ラザロが見えていないだけです。ラザロの貧しさ、ラザロの病、ラザロの困窮について、彼はまったく無関心なだけです。この金持ちは、日々の糧を得、人間らしく生きていくことを喜ぶという次元を遥かに超えて、自分の生活を「飾る」ために、自分の豊かさを誇示するために、富の所有を賛美するために富を用いています。
物語のもう一方の登場人物、ラザロは、特に道徳的に優れているわけでもありません。彼の人生や行いに関する評価は一切ありません。突出しているのは、彼の貧しさと、誰もが目を背けたくなるような悲惨な有様です。体は病に冒され、全身はできものに覆われ、犬がやってきてそのできものを舐めていた。そう記されています。これはユダヤ人にとって、もっとも屈辱的な人生です。
病に冒され、極貧状態にあるというだけで、神に呪われていると見なされるに十分ですが、さらに犬がやって来て、ラザロの体のできものを舐めていたと言われています。犬好きの方には受け入れがたい話だと思いますが、イスラエルでは、犬はもっとも嫌悪される動物のひとつでした。ユダヤ人が「犬を飼う」ことは決してありませんでした。人を「犬」と呼ぶことは、その人に対する最大級の侮辱でした。
ラザロは貧しく、日々の糧にも事欠き、健康を損ない、汚らしい身なりをして蔑まれるすべての者たちを代表しています。ラザロの夢は、金持ちの食卓から落ちてくるパン屑で腹を満たすことでしたが、そんなささやかな夢すら、この世では叶いません。
しかし、金持ちとラザロが死を迎えたとき、大逆転が起こります。ラザロはアブラハムと共に、神の国の祝宴に与っているのです。ラザロがアブラハムと共に神の国に迎え入れられているのは、彼が生前に成した、すぐれた生き方や、道徳的行為のためではありません。彼は単純に、経済的貧しさと、そこからくる苦しみの贖いとして、神の国に迎え入れられています。
金持ちは、貧しい者の存在を無視し、その苦しみに無関心を貫き、地上の富をひたすら自分のために用いることで享受した贅沢な暮らしの報いとして、消えることのない陰府の火に投げ込まれ、そこで苦しんでいます。
この物語には、金持ちに対するイエス様の敵意が、明確に映し出されています。
先週の説教の中でも触れた通り、イエス様にとって、不正でないこの世の富というものはありません。貧しい者を踏みにじること無しに、自分のために富を蓄えることはできないからです。そしてイエス様ご自身も、自分のために富を蓄える者たちに踏みにじられる者たちの一人でした。
イエス様が生まれた時、マリアとヨセフは「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」しか捧げることができませんでした。これはもっとも貧しい者たちが、初子の聖別のために、神殿で捧げる犠牲の動物でした。
イエス様は、多くの者を貧しくすることで、一部の者が豊かになる経済システムの内部に、強大な悪の力を見ています。だからこそ、新約聖書のどこにも、「自分のために富を蓄える」ことを勧めることはおろか、認める箇所すら存在しないのです。
では、この世の富に恵まれた教会は、この日の「金持ちとラザロの物語」という警告から、何を学べきでしょうか?
まず私たちが学ぶべきは、「足るを知る」ことです。第1テモテへの手紙6章にはこのように書かれています。
「8 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。9 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。10 金銭の欲は、すべての悪の根です。」
もし私たちが、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」 (Lk 16:13)というイエス・キリストの言葉に抜け穴を掘ろうとすれば、私たちはその穴を通って、神の国から落っこちることになります。
しかしイエス様は、私たちに、ただ倹約家になれと言っているのではありません。イエス様は、この世の経済システムの中心に巨大な悪が巣食っていることを知っていました。しかし彼は、カール・マルクスのように、暴力革命を通して経済システムを転覆させることを目指しはしませんでした。むしろイエス様は、神の国の福音によって、価値観を転倒させられ、神の国の経済を生きる弟子の群れを生み出すことによって、世界を変革する道を拓かれました。
クリスチャンは、この世の中には見いだすことのできないような、まったく新しい経済共同体を形成することで神の国を世に示すために、イエス様に呼び出されたのです。この経済共同体の名は教会です。この世の富に対して教会が取るべき態度は、イエス様のこの言葉に現されています。
「38 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(Lk 6:38)
イエス様が語った神の国の中心には貧しい者がおり、神の国の命は、貧しい者が祝福されることのうちにあります。そして貧しい者が祝福される交わりの内には、神の国の喜びが溢れます。
願わくは、主が、富への従属から私たちを解放し、私たちの目をラザロに向かって開かせ、ラザロと共に、神の国の喜びの祝宴に与る者としてくださいますように。