
6th Oct., 2019
ハバクク 1:1-6, 12-13, 2:1-4; IIテモテ 1:6-14; ルカ17:5-10
先週、関西電力の幹部20人が、2011年から2018年の間に、福井県高浜町の元助役から、3億2000万円に上る金品を受け取っていたことが大きく報じられました。この20人の大部分は、原発関連部門の役員でした。
関電が発表した調査報告書から分かっているだけでも、豊松副社長と鈴木常務に1億円以上、森中副社長執行役員には4000万円相当、八木会長には859万円相当が渡っています。関電の幹部に金品を渡していたこの高浜町の元助役は、原発関連事業を請け負うさまざまな企業の役員や相談役になっていました。
利権誘導、民意の操作、そして政界工作が原発事業とセットになっていることは、いわば公然の秘密です。関西電力の内藤元副社長は、田中角栄、三木武夫(たけお)、福田赳夫(たけお)、大平正芳(まさよし)、鈴木善幸(ぜんこう)、中曽根康弘、竹下登歴代首相に、「盆暮れに1千万円ずつ献金してきた」と告白しています。また、いわゆる原発マネーは、「地元対策」のためと称して、反対する住民にも渡され、マスコミ、地元メディアなどには「広告」や「取材協力費」といった名目で流れます。
しかし今回の事件では、原発と密接に結びついた会社・企業が、元助役を通して、関電幹部らに利益供与をしています。これを不思議に思う方もあるかもしれません。と言いますのは、原発事業にまつわる「地元対策」として、電力会社から地元の企業や有力者、あるいは政治家に利益供与が行われるというのが、一般的な図式だからです。
しかし、実は、ここにこそ、原発事業の本質が現れています。受益者側の、企業、有力者、政治家たちは、利益の一部を電力会社の中枢にいる人間にkick back、つまり還元することで、電力会社に恩を売るのです。後ろめたい金品を受け取って弱みを握られた電力会社の幹部たちは、その事実が発覚しないようにするために、原発関連事業を受注する企業、有力者、政治家に、さらなる便宜を図るようになります。
事実、関西電力の幹部20人に渡った3億2000万円を出した地元ゼネコンの売り上げは、2013年には3億5000万円ですが、高浜町の元助役が「関電詣で」を始めてわずか5年後の2018年には21億8000万円になっています。2013年の売り上げの6倍以上です。
つまり、高浜町の元助役が関電の幹部たちに示した「感謝」は、より大きな利益を自分にもたらすための、巧妙な工作だったということです。
さて、今朝の福音書朗読の中で読まれた、ルカ17章9節、10節で、イエス様はこう言っています。
「9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
「キリスト教は愛の宗教で、人は皆、神の前で平等だと教えているのに、イエス様は奴隷制度を認めるばかりか、主人が奴隷に対して権威を振りかざすことさえよしとしている。一体どういうことなんだ。」
残念ながら、そういう風に考え始めると、今日の福音書朗読のポイントが、まったく見えなくなってしまいます。この箇所のポイントは、奴隷と主人の上下関係にあるのではありません。
イエス様は、「するべきことをすることは、恩を売ることにはまったくならない」と言っているのです。言葉を代えれば、こういうことです。
「するべきことをして、人に感謝されようとしたり、恩を売って見返りを求めようとすることは、そもそもおかしい。するべきことをするのは、当たり前のことだ。」
残念ながら、どうしてイエス様がこんな話をしているのかは、今朝の福音書朗読の前の部分を読まないとわかりません。
ルカは、イエス様の口を通して、教会の中で、一人一人のメンバーは、他のメンバーの足を引っ張ったり、陥れようとするようなことをしてはならないと注意をします。もちろん、そのような注意をしなければならないのは、現に人を躓かせ、陥れるような行為をしているメンバーがいたからです。そのような者には警告が発せられ、その行為を止めさせなくてはなりません。
しかし、もし警告を受け入れて、人を陥れるようなことをしていたメンバーが、その行為を止めて、相手に対して心から謝るなら、被害を受けたメンバーは、その謝罪を受け入れ、赦さなくてはなりません。しかもイエス様は、一度だけではなく、何度でも赦すようにと弟子たちに命じます。
「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(Lk 17:3-4)
これが、今日の福音書朗読の前段にある話で、それを受けて、「わたしどもの信仰を増してください」という使徒たちの言葉につながります。
ユダヤ人社会は日本同様、対面を気にする社会で、面子を潰されることを何よりも嫌います。世間体を気にする社会では、自分が人を傷つけ、過ちを犯しているかもしれないとはほとんど考えません。しかし、自分の面子が潰されることに対しては極めて敏感です。
そして面子を大切にする社会には、面子を潰す者を「赦す」という発想はありません。むしろ、面子を潰した相手に報復し、恥をかかせることによって、自分の家族や部族の名誉を「回復」することが賞賛されます。
ところがイエス様は、教会では、自分の面子を潰すようなことをする者を赦さなくてはならない。しかも相手が心から謝るなら、一度ならず、何度でも赦さなくてはならないと言います。弟子たちは、そんなことは、人並みはずれた信仰がなければできないと感じます。そして無理難題をふっかける師匠に向かって、「信仰を増してください」と訴えます。
しかし、イエス様は、ユダヤ的誇張方を用いて、それはたやすいことで、信仰が無いと思われるような人間にさえ可能だと答えます。しかも赦すことは、当然するべきことであり、感謝されるようなことでもなければ、相手に恩を売ることでもない。そう言われるのです。
イエス様がこう言われるのは、教会は、赦された罪人の集まりだという前提があるからです。「教会は自主的に集まる刑務所だ」と言われるのを何度か聞いたことがありますが、言い得て妙だと思います。
クリスチャンは、まず、自分が赦されなくてはならない存在であり、そして神に赦されていることを学び、知っている者たちです。自分が赦されなければならないことを知り、そして赦されているが故に、自分を躓かせる者、自分に不正を成す者が悔い改めるなら、その相手をも当然赦すことができるはずだ。そうイエス様は言われるのです。
願わくは主が私たちを、赦し、赦される罪人の群れとして成長させてくださいますように。