
13th, Oct 2019
ルツ 1:8-19a; IIテモテ 2:8-15; ルカ 17:11-19
今朝の福音書のエピソードの背景には、幾重にも張り巡らされた境界線があります。エルサレムは、受け入れられるとみなされる者と、受け入れられないとみなされる者との境界線が引かれる場所です。
サマリアは拒絶を象徴する場所であり、イエス様を受け入れない外国人、あるいは異邦人の共同体です(9:51-56) 。他方、ガリラヤはイスラエル人の故郷であり、イエス様の公生涯が始まる所です。
今朝の福音書の物語は、10人の「重い皮膚病」患者を中心に展開していますが、新共同訳が「重い皮膚病」と訳しているギリシア語のλέπραは、かつて「ライ病」と訳され、ハンセン病と同一視されていました。しかし、聖書に出てくるλέπραはハンセン病とは違うという説が有力になり、新共同訳はλέπραを「思い皮膚病」と訳すようになりました。
λέπραがどんな病であったにしろ、レプラ患者たちは「穢れた者」として排除され、あらゆる人間共同体から切り離され、人として生きることが許されなかったという厳然とした事実は残ります。レプラの人々が生活するのは、街の外であり、集落の外であり、境界線の向こう側です。彼らは文字通り、人間社会の周辺に留まり、人間らしい生活の外側に置かれ、嫌悪されていました。
レビ記 13:45-46にはこうあります。
「45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
レプラの患者たちは、家族から、部族から、村から、町から、生けるゴミとして捨てられた人々であり、それは同時に、神に捨てられたことを意味したのです。ですから、物語の背景にある、サマリアとガリラヤの地理的境界線、重い皮膚病と村に住む人々を隔てる境界線、ユダヤ人と異邦人とを隔てる境界線は、聖い者と穢れた者、神に受け入れられる者と神に捨てられた者を隔てる境界線として機能しているわけです。
今朝の福音書の物語は、イエス様が、ご自分の言葉によって、さらにイエス様ご自身によって、境界線がどのように引き直されるかを示す物語として読むことができます。
イエス様がある村に入ると、10人のレプラの人々が、村の門から遠く離れた所に立って、イエス様に向かって叫びます。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください。」
この後の場面のイエス様の言葉は、とても興味深いものです。イエス様は、ご自分から10人のもとに近づいていくことも、触れることもなく、さらに癒しを宣言することさえしていません。
イエス様は彼らに向かって、ただこう言います。
「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」
レプラの患者が祭司のところに行く目的は、ただ一つです。病が癒され、「きよく」なったかどうかを判定してもらうためです。レブラの人々は律法によって「穢れた者」と認定されているのですから、ある人がレプラかどうか、あるいはレプラの人が「きよめられた」かどうかの判定をするのは祭司の役割です。
祭司は神と人との間に立つ仲介者であり、祭司だけが、誰が聖く、誰が穢れているかを判定する権威を持っていると見なされていました。しかしレビ族の祭司たちは、病を癒すことも、「穢れた者」を聖くすることもできません。
ルカは、この10人のレプラのグループが、祭司のもとに辿り着いたかどうかについて、まったく語っていません。むしろルカは、彼らがイエス様に出会い、歩き始め、祭司のいるところに向かっている間に癒され、聖くされたと言っています。さらにルカは、彼らは、自分が癒されたことに気づいていたものとして話を続けています。
それがいつ起こったにせよ、「聖め」は賜物であり、彼ら自身が獲得したものでも、彼らが自分の力で成し遂げたことでもありません。癒しと聖めの賜物は、彼らの外からやって来ました。長きに渡って、彼らを穢れた者としてきた境界線は、ついに取り払われたのです。
ところが、その境界線が取り去られた瞬間に、新しい境界線が引かれます。
癒され、聖くされた10人の中で、たった一人、サマリア人だけが、神を讃美しながら戻ってきて、イエス様に感謝をささげました。残りの9人は、ユダヤ人祭司のところに行ったのかもしれません。しかし、この10人の中のたった一人のサマリア人は、ユダヤ人祭司のところには行かずに、戻って来ました。いや、そもそも行けなかったはずです。なぜなら、たとえレプラが癒されたとしても、ユダヤ人の祭司が、サマリア人を「聖い」と判定することは決してないからです。サマリア人である限り、レプラから回復しても、ユダヤ人の宗教的権威の目に、彼は穢れた者であり続けるのです。
しかし、ここに、この物語の捻りがあります。この物語は「自分は神の側にいる」、「自分は神に受け入れられている」と思っているユダヤ人に対する皮肉でもあるのです。
10人のレプラ患者が癒され、一つの境界線が取り除かれたその時、ユダヤ人とサマリア人とを隔てる境界線が新たに引き直されました。その結果、ユダヤ人宗教指導者が「聖い」と認める者たちは、彼らを癒し、聖めた、まことの祭司のもとに帰ってこようとはしません。
むしろ、彼らを穢れた者と定め、排斥していたそのシステムの内部に取り込まれ、今度は自分たちが、排除する側のメンバーとなります。
彼らの「聖め」が、彼らの「癒し」が、彼らの受けた祝福が、イエス様から来たことを認めて、神を讃美したのは、たった一人、サマリア人だけでした。彼は、ユダヤ人とサマリア人、穢れた者と聖い者とを隔てる境界線の向こう側へ、イエス・キリストのもとにやって来ました。彼は、イエス様の足元に平伏し、イエス様を拝し、そして、ユダヤ人とサマリア人とを隔てていた境界線を乗り越えました。
しかし、ここで注意すべきことがあります。境界線は、決して無くなりません。境界線が消滅すれば、人間としての生活が不可能になるからです。
例えば、自分と他者との境界線が消滅することはありません。自分が自分であるのは、他の誰とも違うからです。もし自己と他者との境界線が完全に消えてしまったならば、identity、自己同一性は消えてしまいます。
自分と人との境界線が見えなくなれば、入ってはいけない相手の領域に踏み込んで、相手を傷つけたり、人格を否定することにさえつながります。
イエス様ご自身も、神に受け入れられる者、と受け入れられない者との境界線を消去することはありませんでした。むしろイエス様は、神の国の福音によって、無数に引かれた境界線を全面的に引き直すのです。そして私たちは、いかにして、イエス・キリストによって、神の国の福音によって、境界線を引き直すかを問われています。
ナチスが政権を取った後、ドイツの教会は、ヒトラーとイエス様との間に、明確な境界線を引かなければならなかったはずです。日本が国家神道体制となり、戦争への道を突き進んで行った時、教会は天皇と教会の主との間に、明確な境界線を引くべきだったはずです。
しかし境界線を引き間違えたがために、日本の教会は宣教師と自分たちとの間に境界線を引き、天皇を頂点とする国家という宗教の中に取り込まれ、宣教師を追い出す者の側につきました。
イエス・キリストが、ユダヤ人とサマリア人との境界線を消し去ったのだとすれば、例えば、多くの外国人が暮らしている東京の教会で、日本人のメンバーしかいないというのは、教会として何かがおかしいわけです。
今日の物語の中で、孤独な「よそ者」だけが、信仰の目が開かれ、自分に与えられた恵と祝福に気づき、感謝を捧げたいという願いに満たされました。残りの9人は、癒しの賜物が「誰から来たのか」を識別することができませんでした。もしそれができたなら、この9人とサマリア人との元レプラ患者を隔てる境界線も取り払われたことでしょう。
私たちが慣れ親しんだ境界線の外にいる者たちが、しばしば、いのちの豊かさや素晴らしさを、私たちに教えてくれます。そしてクリスチャンとっては、誰にもまして、イエス・キリストこそが、神の国の命の豊かさを私たちに教え、まことの命を与えてくれた「よそ者」のはずです。
しかし、私たちにとってよそ者であったキリストを通して、神にとってよそ者であった私たちは癒され、神の子として回復されました。
このまことの祭司、イエス・キリストへの感謝に満たされて、この世の境界線を乗り越えて、大胆に、新たに境界線を引き直す者とされますように。