
27th Oct 2019
エレミヤ 14:7-10, 19-22; IIテモテ4:6-8, 16-18; ルカ 18:9-14
今朝の福音書には二人の登場人物がいます。ファリサイ人と徴税人です。この二人の登場人物が神殿で祈りをささげ、ファリサイ人は自分の「正しい行い」を誇り、徴税人は自分が正しく生きてないことを知ってへりくだり、神の憐みを乞います。
イエス様は、神はファリサイ人を退け、徴税人が神に義とされた、神に受け入れられたと宣言します。恐らく、ほとんどのクリスチャンは、この物語を読むと「わかりやすい」と思うはずです。そして、そこで語られていることを、すんなりと受け入れられると思います。
なぜわかりやすいと思うのかと言えば、私たちは、教会で繰り返し聞いている話を通して、共通の「枠組み」を身につけ、この「枠組み」を通して、聖書のテキストを理解しているからです。
今日の物語の結論部分にある、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というイエス様の言葉は、私たちが身につけた枠組みをシンプルに言い表しています。ところが私たちは、どんな「枠組み」を通してテキストを読んでいるか、ほとんど意識しません。それは言わば、私たちにすべてのものが見えていても、すべてのものを、それを通して見ているところの目という器官の働きは意識に昇らないのと同じです。
私たちが「クリスチャンとして」聖書を読むための「枠組み」は、聖書テキストを理解するための助けになると同時に、私たちを盲目にすることもあるのです。
例えば、私たちは、福音書の物語の中に、ファリサイ人、サドカイ人、律法学者といった人が登場すると、ほとんど自動的に、彼らをイエス様に敵対する「悪役」に振り分けます。そして同時に、自分をイエス様の側に置きます。ですから今日の物語のファリサイ人は、私たちの頭の中で、即、高慢ちきで尊大な偽善者として処理され、へりくだって神の憐みを乞う徴税人の立場に自分を置きます。そして「この物語がわかった」と思うわけです。
しかし、私たちが「この物語はわかりやすい」と思うときには、イエス様から物語を聞いた人々が、どれほど大きな衝撃を受けたかを、ほとんど理解していません。
私たちが「わかりやすい」と思う今日の物語は、神に従って生きようとしているユダヤ人にとっては、神を冒涜するような話であり、決して受け入れられないものでした。
ユダヤ教徒とクリスチャンは同じ神を礼拝しています。しかし、同じ神をどう理解するか、神と人との関係をどう理解するかという点において、大きな違いがあります。
ユダヤ教の信仰は、人は律法に従って生きることができるという前提に立つ信仰です。守れもしない掟を神が与えて、その掟に従えと命じていると主張することは、神に対する冒涜でしかありませんでした。ですから、ユダヤ教の信仰においては、人は律法を守ることによって、神に正しい者と認められ得るし、神に正しい者と認められるために律法を守ろうと努めることにこそ、ユダヤ教の信仰はあるわけです。
しかし、ユダヤ人たちは、神に関する理解においても、律法の解釈においても、皆が同じ結論に至らなければならないとは思っていませんでした。律法学者もファリサイ人もサドカイ人人も、律法を研究する人々は、「正しい解釈」に到達しよう努めていました。しかし、テキストの解釈について、大きな多様性の余地がありました。
例えばサドカイ人たちは保守派で、モーセ五書しか律法の書物として認めませんでした。それに対して、リベラルなファリサイ派の人々は、モーセ五書に加えて、預言書や諸書と呼ばれる書物、さらに先祖たちから引き継いだ解釈の伝統にも、律法としての権威を与えていました。
どのテキストを権威ある書物として認めるか、そしてテキストをどう読むかの違いは、何をどう信じているかの違いとなって現れます。
保守派のサドカイ人派の人々は、復活を信じていませんでした。モーセ五書には復活に関する記事は皆無ですから、当然の帰結です。他方、ファリサイ派の人々は復活を信じていました。復活を信じる根拠となったのは、預言書と諸書を含む拡大版の旧約聖書と、イエス様が「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と言って非難した、「人間の言い伝え」、先祖伝来の解釈の伝統です。
要は、同じ神を信じるユダヤ人の間には、神についても、律法に関しても、異なる解釈を許容できる大きな余地があったということです。
しかし、奪い取ることもなく、不正をなさず、姦通を犯さず、週に二度の断食をし、全収入の十分の一を献げ、忠実に律法を守って生きようとしている者が神に退けられ、同胞を敵であるローマ帝国に売り渡し、さらには同胞から不正な金を巻き上げて私服を肥やす徴税人が、神に「正しい者」として受け入れられるというイエス様の話は、きわめて大きな違いを許容できるユダヤ教という信仰の中ですら、誰にも受け入れられませんでした。
キリスト教の信仰、特にパウロがローマの信徒への手紙で語るキリスト・イエスへの信仰は、人が神の前に正しく歩み得るという可能性そのものを完全に排除します。それは、ユダヤ教の信仰全体を崩壊させることを意味します。そして、ここにこそ、ユダヤ教とキリスト教という信仰の断絶があります。旧約と新約を隔てる溝は、それほど深く、広いのです。
例えば、イエス様が私たちに、こう言ったとします。
「マーガレット教会の皆さん。あなたがたは良い教育を受け、経済的に豊かで、自分の手を汚さずに生活できる、この世でもっとも恵まれた人々です。あなたがたは、毎週日曜日に礼拝に来て、再び何不自由ない生活に戻っていきます。しかし、あなた方は、多くの人々を貧しくすることで、その豊かさを享受している現実から目を背けています。あなた方はこの世ですでに報いを受けているで、神の国に入ることはできません。むしろ、麻薬の売人、売春婦、売春宿の経営者、人身売買のブローカー、特殊詐欺グループのリーダーたちは、自分が怪しげなことに手を染めていることに気付いています。だから、彼らは正しい者として、神の国に迎え入れられます。」
もしイエス様がこう宣言したとしたら、私たちは、来週以降も教会に来続けるでしょうか?
さらに、教会の歴史を振り返れば、そこには今日の物語の中でイエス様が非難している、ファリサイ人的なメンタリティーの具体例のようなものが山と見出されます。
一例を挙げれば、「神に最高のものを献げるのは相応しいことだ」という論理に導かれて、教会建築は絢爛豪華になりました。この論理の背後に、「神は質素な家で捧げられる礼拝よりも、金や銀や、あらゆる宝石を贅沢に使い、最高の素材を使って建てられた絢爛豪華な聖堂でささげる礼拝を喜ばれる」という「前提」が無ければ、ゴージャスな聖堂を建てる意味はないでしょう。
しかし、少なくとも、イエス様の教えからそのような結論は引き出せないはずです。今朝読まれた、ファリサイ人に対するイエス様の判断に照らしてみれば、厳かな礼拝をしている、美しい典礼を行っているということは、神の名を借りた、単なる自己満足に過ぎないかもしれません。
もしイエス様が、神の掟を忠実に守ることで神に受け入れられるという道を完全に閉ざしたとするなら、「私は、イエス様を救い主と信じています。その信仰の故に私は救われています」、そう言うことも、形を変えた、「行いによる信仰」、あるいは、新しい「自己義認」と紙一重だと言わざるを得ないでしょう。
では、イエス様が、神の掟に従って歩むことで救いに至る道を閉じたのだとするなら、イエス様が語る回心、イエス様が語る「信仰」とは、神の国の民として生きるとは、一体どのような歩みなのでしょうか。
それは恐らく、憐みを受けた者として、憐み深い者となることであり、赦された者として、赦す者となることでしょう。そして、主が弟子の群れに与えた使命は、憐み深く、赦された者が共に生きる共同体の姿を、神の国の先取りとして、世に示すことでしょう。
願わくは、主が私たちに、憐み深く、赦された者の共同体として生きる道を示してくださいますように。