
3rd, Nov, 2019
イザヤ 1:10-20; IIテサロニケ1:1-5, 11-12; ルカ19:1-10
小学校時代、私は母に連れられて日本キリスト教団の赤坂教会に通っていた時期がありました。どうして川崎市多摩区から、わざわざ電車で1時間以上もかけて赤坂の教会までで通うことになったのか、その理由を私は知りません。しかし、毎週日曜日は日曜学校から始まって、夜まで教会にいるので、日曜日の夜は教会に泊まって、月曜日の朝、教会からまっすぐ小学校に行くということが度々ありました。
日曜日は一日中教会にいなくてはならないので、時間をどう潰すかということが、私にとっては大問題でした。私のお気に入りの時間潰しは、聖書の物語を子ども向けにアレンジした紙芝居を読むことでした。その中に、今朝の福音書朗読で読まれたザアカイの物語もありました。
イエス様が街を通って行かれるらしいと噂を聞きつけたザアカイは、街に繰り出しますが、イエスさまの行く所には大群衆が立ちはだかって、チビのザアカイはイエス様の姿を見ることができません。紙芝居の中では、取税人の頭であったザアカイは、税金として定められた額をはるかに超えるお金を人々から巻き上げて金持ちになったけれども、友達の一人もいない、寂しい男として描かれています。
イエス様を見ようと街に出て来たチビで嫌われ者で友達のいないザアカイに、場所を譲る人は一人もいません。一眼だけでもイエス様の姿を見たいと思ったザアカイは、恥をも顧みず、近くの木によじ登ります。すると、イエス様がその木のところまでやって来て、木の枝の上に腹這いになっているザアカイに声をかけます。お世辞にも格好良いとは言えない光景です。
しかし、「今日、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけられたザアカイが、喜んでイエス様を迎え、そして劇的に変えられるというストーリーに、小学生の私は痛く感動しました。
聖書に登場する有名人は沢山いますが、私にとってザアカイは、最も印象に残っている人物の一人であり、「自分もあんな風になりたい」と思わせる、憧れのヒーローでもありました。面白いことに、私と同じように感じている男がもう一人いました。長男のトキワです。
長男のトキワと次男のショウは、私が和歌山の短大で教員をしていたときに、近所のルーテル教会で洗礼を受けたので、洗礼名がありませんでした。二人はスコットランドのアバディーンにいるときに堅信を受けることになり、私のボスであったジョアンと信徒奉事者のジェニーと堅信の学びを始めました。
当時の主教であったボブに、日本では、プロテスタントの教団の中で聖公会だけが洗礼名を付ける伝統があるので、堅信証明書にクリスチャン・ネームを入れて欲しいとお願いしました。そして、トキワとショウに、自分のクリスチャン・ネームを考えるようにと言いました。
するとトキワは、迷うことなく、Zacchaeus、ザアカイを選びました。もしかしたら、単に、ザアカイ以外の聖書の人物を知らなかっただけなのかもしれないのですが、どうしてザアカイがいいのかと聞くと、「ザアカイはすごいよ。あの変わり方が。」そう答えました。
その話を、本人が覚えているかどうかわかりません。ただ、ザアカイが小学生の私のヒーローになったのも、彼の劇的な変化のためでした。
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
このセリフを読むたびに、「なんて格好良いんだ」と感動しました。
ザアカイの劇的な変化とは裏腹に、小学生ながら、私の中には、満たされない思いが渦巻いていました。記憶にある限り、私は自分に関するすべてが嫌いでした。自分の顔も、自分の名前も、自分の親も、自分が住んでいる家も、自分の通っている学校も、自分が置かれているありとあらゆる境遇が、嫌で嫌でたまりませんでした。
一言で言えば、自分を取り巻くものの中に、嫌いでないものは一つとしてありませんでした。きっと、その不満の奥底には、口には出せない変身願望があったのでしょう。だからこそ小学生の私は、劇的な変化を遂げるザアカイの姿に憧れたのだと思います。
しかし私はその頃、人生は結局、どんな親を持つかと親の経済力ですべて決まると信じていました。自分の人生が良い方向に変わる可能性は全く無いと思っていました。小学生の私には、「誰が」ザアカイの人生を変えたのかということは、まったく見えていなかったのです。
自分の置かれている状況に劇的な変化は無く、誰がザアカイの人生を変えたのかも理解できないまま、私は中学生になり、自分の人生に対する絶望感は深くなる一方でした。
ところが、自分で願ったわけでも、計画をしたわけでもないのですが、私もザアカイになっていました。私の人生は、ザアカイのように劇的に変えられたわけではないので、「ザアカイになった」というのは言い過ぎかもしれません。けれども、自分からイエス様のところに行ったわけではないけれども、気づくと、イエス様は私の中にいました。そして、ザアカイのように劇的ではないけれども、人生に大きな変化もありました。喜びが無いと思っていた自分の人生の中に、喜びが現れました。
クリスチャンになって教会生活をする中で、私に与えられた最も大きな祝福は、イエス様に出会って人生が変えられた人々との出会いです。
「自分の人生なんて変わりっこない。」そう思っている人たちが沢山います。私もそう思っていました。しかしイエス様は、絶対に変わるわけがないと思っている人さえも変えることがおできになります。
しかし、彼らがイエス様に出会うためには、「イエス様を一眼見てみたい」と思わせるような噂を、どこかで聞く必要があります。ですから皆さん、ぜひ、その噂の出所になってください。
私たち一人一人はすでに、小さなザアカイとされたはずです。たとえ劇的でなくとも、イエス様を迎え入れた者たちの人生は、イエス様と共に歩む中で変えられ、イエス様に出会わなければ知らなかった喜びを味わっているはずだからです。
願わくは主が皆さんを、新しいザアカイを生み出すための、小さなザアカイとして用いてくださいますように。