聖霊降臨後第22主日 創立記念礼拝 説教

10th Nov. 2019

私は2017年の2月にマーガレット教会に赴任しましたが、その時は佐々木道人司祭がマーガレットの管理牧師でした。それは丁度、「創立記念日論争」が勃発している最中でもありました。

そして、あろうことか、2月の教会委員会でのことだったと思いまつつすが、佐々木司祭は、「4月に塚田司祭が牧師になってから創立記念日を決めるように」と言い残して去って行かれました。そのとき私は、「主よ、できることなら、この杯を私から取り除けてください」という気持ちでした。

使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、このように言っています。

「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(ローマ 14:5)

パウロの威を借りて言えば、創立記念日をいつにするかということは、教会にとって重要な問題ではありません。

私自身は、「すべての日を同じように考える人」です。元旦に、今年は5キロ体重を減らそうとか、毎日、日記をつけようと決意をすることもありません。新しいことをする決断をするのなんか、いつだっていいと思っているからです。自分の誕生日が特別な日だとも思っていないので、家族にはプレゼントもいらないし、特に何もしなくていいからと頼んでいます。

教会の創立は、人の誕生とは違って、何年何月何日に生まれたとは言えません。運良く、歴史的に検証可能な史料が豊富に残っていたとしても、教会の始まりをどこにするかという議論は無限に続けることができます。ですから、歴史的に忠実に記念日を定めようという試みには、誰もが納得する着地点がありません。

恐らく教会の「祝日」で、歴史的事実と重なっているものは皆無でしょう。

例えば、私たちはイエス様の誕生日を知りませんが、クリスマスを祝います。復活の日がいつか知りませんが、イースターを祝います。ちなみに、イースターをいつ祝うべきかという論争は、今日に至るまで続いておりまして、この論争は、主が再び来られるまで、解決することはなさそうです。

私たちは聖霊降臨の日を知りませんがペンテコステを祝います。イエス様の昇天の日を知りませんが、昇天を祝います。

これらのことから言えることは、教会が定める祝日の焦点は、明らかに、その日付ではなく、その意味の側にあるということです。

では、「マーガレット教会なんだから、聖マーガレット日を祝日にすればいいじゃないか」という案に、私が乗り気であったかというと、そんなこともありませんでした。

私は、そもそも「聖人」の認定制度なるものが教会に生まれたことは負の伝統だと思っています。もちろん、新約聖書の中にも「聖人」は出てきます。

しかし日本語で「聖人」、あるいは「聖徒」と訳されるギリシア語の ‘ἅγιοι’ という言葉は、新約聖書の中で、「すべてのクリスチャン」を、「教会を構成するすべてのメンバー」を指して用いられています。

つまり、新約聖書は、使徒たちとか、特に素晴らしい功績を残したクリスチャンだけを選んで聖人と呼んでいるのではなくて、教会全体を、すべてのクリスチャンを、聖人と呼んでいるのです。

そんなわけで、私は聖人の祝日なるものにも、まったく関心がありません。それでも創立記念日を聖マーガレト日の11月16日としたのは、教会の名前にマーガレットの名が冠されている以上、この聖人とそこに結び付けられている意味を無視するわけにはいかないだろうというのが一点、そしてもう一点は、日にちを廻る無限の議論を避けるためでした。

マーガレットは St Margaret of Scotland と呼ばれますが、もともとはイングランドの王族です。彼女はスコットランド王、マルコム三世と結婚して、スコットランド王妃となった後、スコットランドの王族をイングランド化します。

スコットランドの王族は、イングランドの王族とは比較にならないほど、素朴で質素な生活を送っていました。しかしマーガレットはイングランド貴族の風習を持ち込んで、宮殿をきらびやかに飾り、豪勢な服に身を包み、食事はすべて金や銀の器で供せられるようになりました。

さらにマーガレットは、イングランドからスコットランドに多くの商人を呼び寄せ、彼らが持ち込んだ贅沢品は、スコットランドの庶民が育て、作ったものをマーケットから追いやることになりました。

教会も激変しました。マーガレットがイングランドから呼び寄せた主教、司祭、修道士によって、ケルト系教会の伝統が否定され、庶民の言語、Gaelic で捧げられていた礼拝はラテン語に取って代わられました。ケルティック教会の暦に従って祝われていたイースターは、ローマの暦に従って祝われるようになり、教会のローマ化が徹底されました。

1250年に、マーガレットを聖人として認定したのは、時のローマ教皇インノケンティウス四世です。言うまでもないことですが、マーガレットがローマ・カトリック教会の聖人となり得たのは、彼女によってスコットランドのケルト系教会のローマ化が行われたからです。

マルコム三世とマーガレットの間には8人の子どもが生まれますが、彼らは皆English名を与えられ、Gaelic名の子供は一人もいません。マルコム三世の治世以降、つまりマーガレットが Queen of Scotland となって以降、スコットランドの土着の言語であった Gaelic は急激に衰退しました。

こうしたことから、スコットランドの庶民は、Queen of Scotlandのマーガレットに対して、非常に強い反感を抱いていました。無理なからぬことです。

しかし、マーガレットには、きらびやかさを求めるイングランド貴族としての顔とは別に、あるいはそれと共に、修道女的な顔をも持っていました。

彼女は自分の周りを華やかで豪勢で荘厳なもので飾る一方、みなし子と貧しい者たちへの奉仕の業に励みました。マーガレットは、毎朝、自分の朝食を摂る前に、9人の物乞いの子どもたちを、時には彼らを腕に抱いて、自分の手で食事を与え、養ったと言われています。

さらに、これはマーガレットの提案によって行われたことのはずですが、マルコムとマーガレットは、年に数回、300人の貧しい人々を宮廷に招いて晩餐会を開きました。その際には、王と王妃自ら、彼らの給仕となりました。

マーガレットは、巡礼者や物乞いの足を洗い、自分のお金を貧しい者に分け与え、自分のお金が無くなると、宮廷で彼女に仕える他の貴族や貴婦人から借金したり、時には、マルコム三世のお金を盗んで貧しい者たちに施したそうです。

驚くに値したいことですが、マーガレットは当時の教養人であり、毎日、ラテン語で聖書を読み、祈りを唱え、信仰の書物を読みました。

今日のところは、この世的な絢爛豪華さや荘厳さを求めるマーガレットの顔と、貧しい人々に仕える修道女的マーガレットの顔とが、どこでどう結びつくのかという問題は脇に置いておきましょう。

しかし、確かに言えることが一つあります。

それは、彼女がこの世の命を超えて、永遠の命、復活の命に目を向けていなかったとすれば、貧しい者たちに仕えるマーガレットはいなかったということです。

彼女は病弱で、50歳になる前に死を迎えました。マーガレットは、この世の命に限りがあることをよく知っていたからこそ、復活の命から目を離しませんでした。

72年目の創立記念を祝う私たちも、この点において、マーガレットに倣うものとされるよう、共に祈りたいと思います。

願わくは、主が私たちを、この世の命の儚さを知り、復活の命に目を向け、貧しい人々に仕える教会としてくださいますように。