降臨節前主日 説教

24th Nov 2019

エレミヤ 23:1-6; コロサイ 1:11-20; ルカ 23:35-43

今日は教会の暦で、一年最後の主日で、来週の日曜日、12月1日から新しい一年が始まります。日本聖公会の聖書日課では、今日は降臨節前主日となっていますが、ローマ・カトリック教会はこの日を「王であるキリスト」の日曜日としています。

伝統的に、降臨節前主日は、「奮起の日曜日」(‘Stir-up Sunday’) と呼ばれ、福音書朗読は、ヨハネ6章5節から14節の、5千人の給食の箇所から取られていました。一人の少年が献げた5つの大麦パンと2匹の魚をイエス様が祝福して、大群衆を養った物語です。そして、その日の特祷はこう祈っていました。

「主よ、あなたを信じる人々の意志を奮い立たせ、善き業の実を豊かに結び、豊かな報いを受けることができるようにしてください、私たちの主イエス・キリストによって、アーメン。」

一人の少年が献げた5つパンと2匹の魚は、男だけで5千人と言われる群衆の前では、何の役にも立たないと思われるかもしれない。しかし人の目には取るに足らない、小さなものが、イエス様に献げられたとき、そこにいるすべての人たちが満ち足り、さらに多くの人を養えるだけの食料が残った。そう語られています。

この大ピクニックの物語は、神の国の祝宴の豊かさを象徴しています。神の国は終末論的出来事であり、その完成は、主が再び来られる時まで引き延ばされています。

一年最後の「奮起の日曜日」は、次の日曜日から始まる新しい1年を、終わりの時から「今」を見つめて生きる一年にしようと、決意を新たにする時と位置付けられていたのです。

しかし20世紀半ば以降に始まった典礼刷新運動の流れの中で、1970年、ローマ・カトリック教会は「奮起の日曜日」を、「王であるキリスト」の日曜日へと変更することにしました。恐らく、この変更の背後には、終末論の焦点は「信仰者の良き業」よりも、むしろ「王なるキリストが帰って来られる」こと、再臨にあるべきだという「新たな神学的洞察」があったのでしょう。

ローマ・カトリック教会の中で起きた大きな変化は、Anglicanの教会にも影響を与え、2000年に出版された Church of England の Common Worship でも降臨節前の日曜日は Christ the King「王なるキリスト」となっています。

日本聖公会の聖書日課には「王なるキリスト」という言葉は出てきませんが、この日のテーマは、明確に、「王なるキリスト」です。この日の福音書朗読はローマ・カトリック教会が「王であるキリスト」の主日に割り当てている福音書朗読箇所と同じです。特祷にも「王の王、主の主」とあります。この日の礼拝が、「王なるキリスト」のテーマに沿っていることは疑いようがありません。

今日の第2朗読と福音書朗読のコントラストに注目してください。コロサイの信徒への手紙は、この世のいかなる権力者についても語り得ないことを、イエス・キリストについて語っています。

キリストは「見えない神の姿」であり、「すべてのものが造られる前に生まれた方」です。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も」、すべてのものは、キリストによって、キリストのために造られ、すべてのものはキリストによって支えられています。

そして、このキリストは、十字架の血によってすべてのものを神と和解させ、平和を打ち立てられました。

一言で言えば、コロサイの信徒への手紙は、イエス・キリストは全宇宙を造り、支配し、そして完成させる王であり、この方の他に、王も支配者もいないと宣言しているのです。

しかし、そう宣言する教会は、ローマ帝国の権力構造の中にいかなる地位も無く、何の影響力も持ちあわせていませんでした。教会はローマ帝国という統治体制の中には存在しない存在でした。つまり、ローマ帝国という支配の中で、教会は、何の法的位置付けもない集団でした。それでもクリスチャンたちは、イエス・キリストが全てを治める王であると信じていたのです。

しかし、すべてを創造し、すべてを統べ治め、すべてを神と和解させて完成へと導く王は、今朝の福音書朗読の中で、この世の支配者によって十字架に架けられ、人々からあざけられ、ののしられながら、敗者として、失敗者として、無残な死を遂げようとしています。

そのとき、イエス様の横で、同じように十字架に架けられ、何の希望もない敗北者として死のうとしている男が、こう言葉を絞り出します。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

この言葉に、イエス様はこう答えられました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

「楽園」と訳されているのはギリシア語のπαράδεισος、パラダイスという言葉です。この言葉は、新約聖書全体の中でたったの3回しか用いられていませんが、ギリシア語訳の旧約聖書、七十人訳の中で、エデンの園を指して用いられています。

創世記2章で、神は人を形作りエデンの園に置かれます。その中央には、善悪の知識の木と、命の木があり、人は善悪の知識の実を食べて、神のような知識を得ることに成功します。しかし善悪の知識の実を食べた後、人はエデンの園、パラダイスから追放され、命の木に近づくことができなくなりました。人は神の命、不死の命を得る機会を失いました。

しかし十字架の上で死のうとしている男に向かって、イエス様は、「お前は今日、自分と一緒にパラダイスにいる」と宣言します。パラダイスには不死の命を与える、命の木があります。イエス様は、イエス様と共に十字架の上で死にゆく男に向かって、共に不死の命に与る。そう言っているのです。

十字架の死は、絶望の死です。人々が望むもの、地位も、名誉も、財産も、人からの評価も、そして人としての尊厳も、全てを奪われて、人々の笑い者となって、人々の軽蔑の的として、辱められ、何の希望も無い者として死ぬこと。それが十字架の死です。

しかし神はキリストを通して、この世において絶対に希望を持ち得ない者、人生をやり直す時間の無い者にさえ、新しい命を与えられます。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉は、そのことを示しています。

そして教会は、この世で希望の無い者たちが、喜びをもって生きる群れとなり、パラダイスの希望を指し示すという使命を与えられました。

私たちの王、イエス・キリストは、悪によって悪に立ち向かい、暴力をもって暴力を滅ぼす道を退け、ご自分を与えることによって、喜びと平和の園、パラダイスへの道を開いてくださいました。

私たちも、命の与え主キリストに自らを献げ、人を生かし、パラダイスの命を人々の前に輝かす者とされますように。