降臨節第一主日 説教

1st. Dec. 2019

イザヤ2:1-5; ローマ 13:8-14; マタイ 24:37-44

降臨節第一主日、教会はこの日から、新しい一年を歩み始めたことになります。この降臨節をもって、正式に、クリスマス・シーズンが始まったことになります。

降臨節は英語でAdventと呼ばれます。それは「到来」という意味であり、伝統的に、このAdvent の期間は、忍耐して到来を待ち望むときとされてきました。

12月25日のクリスマスは、イエス・キリストがこの世にお生まれになったことをお祝いする日ですから、私たちが忍耐して待つのは「イエス様の誕生だ」と思うかもしれません。しかしそう考えると、話がかなりおかしなことになります。なぜなら イエス・キリストは、約2020年年前に、すでにお生まれになったからです。

ちなみに、私たちが用いているグレゴリオ暦は、もともと教会のカレンダーで、それはイエス・キリスト以前・以後で分けられていることになっています。BCはBefore Christ、キリスト以前で、ADはAnnno Domini(主の年)、 主イエス・キリスト以後ということになっています。しかし実際には、 イエス様の誕生は紀元前の9年か、6年か、4年のどこかで、AD1年の可能性はありません。

本題に戻ります。すでにイエス様が2020年前に生まれているわけですから、Adventの季節に、私たちが忍耐を持って待つことを学ぶべき「到 来」は、イエス様の誕生ではありません。

それでは私たちは何を、忍耐を持って待ち望むのでしょうか。それは神の国の完成であり、イエス・キリストが再び来られるときです。

今朝の福音書朗読は、目を覚まして、イエス・キリストがいつ来てもいいように準備をしておくようにと警告している箇所です。

では、なぜこのような「警告」が必要だったのでしょうか?それは、 人々が待つことに疲れ果て、待つことの意味を見失いつつあったからで す。

今日の福音書朗読にも見られるように、イエス様は弟子たちに、ご自分が近い将来に「戻ってくる」と語っていました。そしてパウロを含む使徒たちは皆、キリストが、「すぐに戻ってくる」と信じていました。

パウロは今朝の第二朗読の中でこう言っています。

「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」

ところがこう語っていたパウロばかりか、ペテロも、キリストが戻ってくる前の紀元後の64年頃、ローマで殉教してしまいます。すぐに帰っ て来ると言ったキリストは帰って来ず、教会の土台と目された偉大な使 徒たちが世を一人また一人世を去り、教会は大いに動揺しました。

紀元後の66年にローマ軍がエルサレムを包囲し、イエス様が預言していた神殿崩壊が始まり、70年に完全に滅ぼされました。多くの、いえほとんどのクリスチャンは、神殿崩壊を、イエス様が帰 ってくる時の明確なしるしと捉えました。彼らは預言の成就を目にして、「ついにイエス様が帰ってくる!」そう確信したはずです。

しかしキリストは帰ってきませんでした。イエス様は確かに神殿の崩壊を預言しました。しかしイエス様は、ご自分がいつ戻ってくるのか知らなかったのです。

多くのクリスチャンが動揺し、失望し、そして信仰を失いました。そのような信仰の危機に直面する教会を鼓舞し、信仰を失いかけている人々を再び立ち上がらせるために、福音書という書物が書かれました。

イエス様ご自身が語っていたように、使徒たちが信じていたように、 キリストが帰ってこなかった。この現実は私たちクリスチャンにとって何を意味するのでしょうか?

それは、イエス・キリストが帰って来るまで、福音は未完成だということです。それは同時に、キリスト教信仰は不完全で、未完成だということでもあります。

「再臨」に関して、イエス様ご自身も、使徒たちも、その後の教会も、 みんな間違ったわけです。「イエス様が間違ったとは聞き捨てならない」 とお叱りを受けるかもしれません。

しかし、もしイエス様が間違ったのではないとすると、イエス様が「再び来られる」と語ったことについて、弟子たちは何も理解できず、全員が誤解していたことになります。もしそうだとすると、なぜそれほどまでに、イエス様にコミュニケー ション能力が無なかったのかと問わざるを得ません。

私は、イエス様にコミュニケーション能力が無かったのではなくて、 再臨について語っていたことが、単に間違っていたのだと思います。

しかしイエス様が再臨に関して語っていたことが間違っていたとし ても、キリスト教信仰の全体が崩壊するわけでも、無意味になるわけでもありません。

そもそも教会は、イエス・キリストが帰って来なかったおかげで、教会として存在しており、主が帰って来なかったおかげで、教会は使命を、ミッションを帯びることになったのです。

教会のミッションは、イエス様が告げ知らせ、そして到来させ始めた神の国の働きを引き継ぐということです。

福音書を読めば容易に気付くことですが、イエス様は、ご自分の到来を告げ知らせたのではありません。イエス様は神の国の到来を告げ知らせ、力ある業をもって、それを到来させ始められたのです。

教会は「キリストの再臨」の意味を問い直しながら、イエス様が始められた神の国の働きを継続するというミッションを与えられました。これは最大級の忍耐を要することです。

ただ単に、クリスマス・シーズンの華やかさと、ウキウキした気分を毎年追い求め、反復するだけなら、キリスト教信仰は命を失っていきま す。1年、また1年と経つごとに、「キリストが帰ってこなかった」現実の 重みは増し続け、信仰の妥当性が失われていくからです。

しかし忍耐をもって「キリストの再臨」の意味を問い続けながら、復活のキリストを見つめて歩むとき、私たちは神の国に仕えることを喜ぶことができます。

キリストの到来を今も祝うことができるのは、復活の希望があるからです。

暗闇に覆われる世界の中で、小さな光が輝けば、そこには希望が 生まれます。小さな光が輝くからこそ、世界は生きるに値する所となります。

ですから、このAdventのとき、お一人お一人の内にあるキリストの光を、神の国の光を、人々の前で輝かせてください。皆さんが輝かせる、その小さな光は、悲しみの中にある人に、苦しみの中にある人に希望を与えることができます。

クリスマスは、日本中のすべての人に知られています。しかしこの国に住む多くの人々は、クリスマスが、神のひとり子イエス様という光がに来られたお祝いだとは知りません。

この降臨節、私たちの信仰の忍耐が新たにされ、人々をキリストの光のもとに招くことができますように。

【クリスマス・リースの祈り 第一週】

ダビデの町ベツレヘムに、ダビデのような王としてお生まれになられた、世の光、主なるイエス様、クリスマスのとき私たちの心の中に生まれ、今日、私たちの人生の王となってください。アーメン