降誕後第1主日 説教

29 Dec 2019 

イザヤ 61:10-62:3; ガラテア 3:23-25; ヨハネ1:1-18

ヨハネ福音所の全体をひとつのオラトリオに例えるとするなら、今朝の福音書朗読で読まれた箇所はその序曲 (overture) にあたります。しかし、これは同時に、ヨハネ福音書という作品全体の要約でもあります。

そして、ヨハネ福音所の序曲において、ユダヤ教の創造信仰と、ギリシア哲学の logos の伝統と、ヘレニズムとの遭遇によって発展したユダヤ教の知恵の伝統が合流しています。

ヨハネが「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と言うとき、これが創世記1章に描かれている、神の言葉による創造の業を指し示していることは明らかです。

しかし神の創造の業について語っているヨハネ福音所の冒頭で、何か奇妙なことが起きています。

創世記1章は、神が初めにすべてのものをつくられたところから始まります。しかしヨハネは、天地創造「以前」の、神のみが存在する「とき」から話を始めます。

彼は、天地創造「以前」に遡り、神と共に存在した「言」に焦点を当て、そして創世記1章に描かれている天地創造の主語を、神から、むしろ「言」に移動させようとしているのです。

新共同訳聖書が「言」(ことば)と訳しているのはギリシア語の logos という言葉ですが、これはギリシア哲学の伝統の中で、非常に重要な用語の一つです。

紀元前535年頃から475年に、ヘラクレイトスという哲学者がいました。彼の作品は残っておらず、他の著者による引用と断片しか残っていませんが、その断片の一つにはこうあります。

「(宇宙の)法則 (logos) はここに説明した通りである。しかし、人々(男たち)は、これを聞いた後も、これを初めて聞いたときも、いつも、これを理解できない。すべてのものはこの法則 (logos) に従って存在するようになったにも関わらず、彼らはそれに出会ったことがないかのようである。」

「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」

このヨハネの言葉に相通じる響きを感じ取るのは、私だけではないでしょう。

ギリシア語の logos は男性名詞で、ギリシア哲学の伝統において、 logos は常に、男性と結びいて付いています。実際、ギリシアの哲学者の中に女性は存在しませんでした。しかし、ヨハネ福音書序曲の「言」なる Logos の描写は、女性の姿として描写される知恵なる Sophia に酷似しています。

旧約聖書の箴言8章22節から31節には、知恵は、神のあらゆる創造の業に先立って、生まれ、永遠の昔に神によって祝別されたと記されています。

紀元前20年から紀元後の50年にかけて活躍した、アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロンは、自身の著作の中で、知恵なるSophiaと「言」なるLogosを密接に結び付けて描いています。

また、タルグムと呼ばれるアラマイ語で書かれた旧約聖書注解の中で、「言」(memra=masculine term)は神の助け手、アシスタントとして現れます。

ですから、女性の姿で描かれる知恵なるSophiaと男性の姿で描かれる神の助け手としての言なるLogosの境界線が揺れる、あるいはこの二つが融合されて語られるというのは、ヨハネの専売特許ではありません。

ヨハネの福音書は、その全体を通じて、人は Logos であるイエスを通してしか、神について知ることができないと主張します。ユダヤ教を含め、いかなる知恵や信仰の伝統からも、人は神について知ることができないと言うのです。

ところが、そう主張しているヨハネ自身のキリスト理解は、ユダヤ教の信仰とギリシアの知恵の伝統に依存しています。

神が世界を創造したと告白するのは、ユダヤ教の信仰です。神が言によって世界を創造し、初めに光を創造し、そして神が命を与えたことを語るのはユダヤ教の信仰の書物、旧約聖書です。

ユダヤ教の知恵の伝統は、ヘレニズム文化と接触し、ギリシアの知恵から多くの刺激を受けて発展しました。アレキサンドリアのフィロンが、知恵なる Sophia と「言」なる logos を結び付けて語ることができたのは、ギリシア哲学から、プラトンの伝統から学んだからです。

ヨハネが彼の福音書を書きえたのは、彼に先立って、ユダヤ教の信仰をギリシア哲学の言語を用いて表現し、旧約聖書をギリシア語に翻訳した人々がいたからです。

ヨハネ福音書に先立って、ヘレニズムとの遭遇を経たユダヤ教の内部には、神の言葉としての律法、トーラーが、神と共に永遠に存在していたという「解釈」が生まれていました。そして神の律法は、知恵と同一視されるようにもなりました。

ヨハネがその福音書の冒頭で、「初めに logos があった。Logos は神と共にあった。Logos は神であった」と語り得たのは、ヘレニズム文化と接するようになったユダヤ人たちが、イスラエルの信仰を、ヘレニズムの文化の中で、ギリシアの知恵の言葉をもって表現してきたからです。

もちろんヨハネは、キリスト教をギリシア哲学に吸収させようとしたのではありません。むしろ彼は、イエス・キリストへの信仰によって、ギリシア哲学の伝統と、ユダヤ教の伝統を乗り越えようとしています。

しかし、キリストへの信仰によってギリシア哲学を乗り越えることを可能にしたのもまた、ギリシア哲学の伝統でした。

旧約聖書の箴言に描かれている知恵は、あくまでも神によって造られた被造物であり、神ではありません。しかしヨハネは、Logos を 後期ユダヤ教の知恵の伝統に沿って描写しつつ、ユダヤ教の知恵の理解を乗り越えて、Logos を「神」と呼びます。

イエス様の時代、そして使徒たちの教会が生まれた時代にもっとも影響力があり、使徒言行録にその名の登場するストア派の哲学者たちは、ヨハネに先立って、logosを「摂理」、「自然」、「宇宙の精神」、そして「神」と呼びました。恐らく、ストア派の哲学の伝統無しに、ヨハネがLogos を 「神」と呼ぶことはできなかったでしょう。

ヨハネは、その福音書の冒頭で、肉となって私たちの間に幕屋を張られた Logos、イエス・キリストの内に顕れた栄光を、当時の最高の知識を総動員して表現しようとしています。

同じことが、ヨハネの約1900年後に生きる、私たちにとっても必要です。

ギリシア哲学の伝統において、logosは宇宙の背後にある法則であり、論理であり、理解可能性です。ヨハネはこの知識と、キリストへの信仰を結びつけることを躊躇しませんでした。

もし今日、最先端の科学的発見と、キリスト・イエスへの信仰とを結び付けて語ることのできるなら、私たちの信仰はさらに深まるはずです。

最良の知識を用いてキリストの栄光を表現する努力を、私たちも続け、信仰の言語と自然科学の言語を結びつけることのできる神学者を、神が備えてくださるように、共に祈りましょう。