
24 Dec 2019
イザヤ 9:1-3, 5-6; ローマ 1:1-7; マタイ 1:18-25
皆さん、クリスマスおめでとうございます!
私たちは今晩、闇を照らす光、「神が共におられるという」神ご自身の宣言であるイエス・キリストの到来を、共に喜び、祝うために集まっています。
しかし、今晩私がお話することは、クリスマスのウキウキした気持ちとか、ロマンティックな雰囲気を求めて来られた方にとっては、がっかりする内容かもしれません。
この24日の降誕日第1聖餐式の日課は、旧約朗読以外、今週の日曜日、22日の聖餐式聖書日課とまったく同じです。
また、私がこれからお話しする内容も、22日の日曜日の早朝礼拝でお話ししたことと、基本体には同じですので、22日の早朝礼拝に出られた方はにとっては、同じ話を2回聞くことになって申し訳ございません。
先週の水曜日、12月18日に、一つの民事裁判の判決が言い渡されました。この裁判は当初から、日本よりも世界のマスコミから、非常に大きな注目を集めていました。
2015年の4月、ニューヨークでジャーナリズムと写真の勉強を終えて帰国した伊藤詩織さんは、ジャーナリストとなることを志し、ロイター通信でインターンとして働き始めました。そんなとき、当時TBSのワシントン支局長だった山口敬之(やまぐち のりゆき)氏から仕事のオファーがあり、山口氏は自分が東京に戻ったとき、就労ビザの話をしたいからと言って伊藤詩織さんを呼び出します。
伊藤詩織さんは、食事をしながらお酒を飲んでいるときに突然意識を失い、自分で歩くこともできないほどの酩酊状態となりました。山口氏がタクシーを呼び、詩織さんは運転手に「近くの駅まで」と言ったにも関わらず、山口氏は自分の滞在していた東京のホテルにタクシーを向かわせます。
そして自分で一人では歩くことのできない詩織さんを山口氏が部屋に無理やり部屋に連れ込み、性行為に及びます。詩織さんは痛みで目を覚まし、必死に抵抗しますが、山口氏は行為を続けます。
彼女は病院、レイプ救援センター、そして警察に助けを求めようとしますが、だれも彼女を助けてはくれません。警察は、こういった事件はよく起こることであり、性犯罪は捜査が難しいと言って、詩織さんが被害届を出すことを思いとどまらせようとします。
周囲の報道関係者も、事件を捜査員に報告しないようにと彼女に勧めます。もし報告すれば、ジャーナリストとしての仕事も失い、業界で仕事ができなくなる。人生もそれで終わってしまう。そう警告されます。彼女が犯罪者として訴えている人物は、知名度が高く、業界で成功している人物だったからです。
しかし彼女は被害届を出し、捜査を依頼します。捜査の過程には、しばしばセカンド・レイプと呼ばれるような、耐えがたい出来事がいくつもあります。
例えば、男性警官4人の前で床に寝転がり、等身大の人形を相手に、レイプ・シーンを再現することを求められ、それを写真に撮られます。屈辱的な捜査、ホテルの監視カメラの映像、タクシー運転手やホテル従業員の証言、下着に付着した精液のDNK検査結果を受けて、高輪署は山口敬之(やまぐち のりゆき)氏の逮捕状を取り、2015年6月8日、彼が帰国する成田空港に警官を配置し、逮捕の瞬間を待ちました。
ところが逮捕直前のタイミングで、当時の警視庁刑事部長、現・警察庁官房長、中村格(いたる)氏から電話が入り、逮捕中止の指示が出されます。
山口敬之(やまぐち のりゆき)氏は、いつでも安倍首相本人の電話を鳴らすことができるほど、首相に近いジャーナリストでした。そして逮捕状の執行停止を命じた中村格(いたる)氏は、菅義偉(よしひで)官房長官の秘書官を務めた人物です。
つまり、安倍首相に最も近い御用ジャーナリスト、山口敬之(やまぐち のりゆき)氏の逮捕を、官邸中枢にもっとも近い警察官僚が動いて妨害したわけです。
これを受けて、詩織さんは顔と実名を公表して、山口氏を相手取り、民事訴訟を起こします。すると彼女は、「売名行為だ」、「同じ女性として恥ずかしい」、「本当にレイプ被害にあった女性は人前に出て話したり、笑ったりできるはずがない」といった、凄まじいバッシング晒されるようになりました。
ちなみに、詩織さんに対する嘲笑とバッシングの殆どは、安倍首相と現政権の支持者たちから来ています。政権中枢に最も近いジャーナリストに対する訴えに耳を傾け、正面からこの問題を取り上げる報道機関は、一社もありませんでした。
詩織さんは、裁判での尋問を控えた今年7月、PTSDによる自殺未遂をするほどにまで、精神的に追い詰められていました。その時のことを、彼女はこう証言しています。
「自分でも理解できなかった。同じように孤独で苦しむ被害者がたくさんいるが、誰も悪くない。提訴してから2年間、死ななくて本当によかった。」
そして今月18日、東京地方裁判所は、伊藤詩織さんの主張を全面的に認め、山口敬之(やまぐち のりゆき)氏の反論を虚偽と断定する有罪判決を出しました。その途端、怪しい沈黙を守り続けて来た日本中のマスメディアがこぞって、この事件を報じました。
この事件の醜悪さは、力を持つ者に甘く、弱い者を徹底的にいじめるこの国の、この社会の醜悪さを、そのまま反映しています。
15年ほど前、吉祥寺のナミュールノートルダム修道院で行われたクリスマス・ミサの説教の中で、恩師のマシア神父さんがこう言われました。
「マリア様はレイプ被害者で、イエス様はレイプ犯の子どもであったかもしれない。」衝撃的な言葉でした。
その時の私には、まだマシア神父さんがそこで取り上げようとしていた神学的問題を、きちんとは理解できませんでした。しかし、今は、いわゆるマリアの処女懐胎に対してマシア神父さんが突きつけた疑問の意味がわかる気がします。
そもそも、なぜメシアは、キリストは、処女から生まれなくてはならないのでしょうか?旧約聖書のどこにも、処女が子を宿す話も無ければ、メシアが処女から生まれると語っている箇所もありません。
「マリアの処女懐胎」の物語の背後には、「性」と「穢れ」を結びつける視点が隠れており、さらにその後ろには、男による支配が隠れています。「性」と「穢れ」の同一視は、新約聖書が書かれる遥か前に、バビロン捕囚後のユダヤ教内部で前面に現れます。
マタイが引用しているイザヤ書7章14節に出てくる「おとめ」は、ヘブライ語の עַלְמָה (al.mah) で、「若い女性」を意味します。この言葉に、「処女」という意味はありません。もちろんヘブライ語にも「処女」を意味する言葉はあります。 (be.tu.lah) בְּתוּלָה という言葉です。
ところが、紀元前3世紀から2世紀の間に、ヘブライ語聖書がギリシア語に翻訳されたとき、「若い女性」を意味するヘブライ語の עַלְמָה (al.mah) が、ギリシア語の「処女」を意味するπαρθένος という言葉に置き換えられました。このギリシア語訳旧約聖書は七十人訳と呼ばれます。
ヘブライ語で「若い女性」を意味する言葉を、ギリシア語で「処女」と訳すことは、限りなく「誤訳」に近いわけですが、「若い女性」を「処女」と訳し変えるのには、それなりの理由があったはずです。その理由は、紀元前3世紀から2世紀頃のユダヤ教の、結婚に関する規定です。
婚姻を含め、ユダヤ教の実践に関する規定はすべて律法と呼ばれます。そして、律法を守るのは男の役目です。女性は律法を学ぶことも許されていませんでした。それ故、律法を遵守することも求められていませんでした。
ユダヤ教信仰は、ユダヤ人の男のものなのです。ですから、ユダヤ教の結婚に関する規定は、イスラエル人男性が結婚すべき女性に関する規定だということになります。
そして紀元前3世紀から2世紀のユダヤ教の中で、敬虔なユダヤ人男性の結婚相手に相応しい「若い女性」は、ユダヤ人の処女に限定されることになったわけです。
裏を返せば、やもめや離縁された女性は、たとえ若くても、すでに「穢れている」ので、結婚相手として相応しくないということです。
このような規定が何を「目指しているか」は明らかでしょう。「汚れていない女に自分の子どもを生ませること」です。子どもを宿して生むべき「若い女性」は、単なる若い女性ではなくて、「処女」でなくてはならないことになったがゆえに、「若い女性」を意味するヘブライ語の עַלְמָה (al.mah) は、七十人訳の中で、ギリシア語の「処女」を意味するπαρθένος という言葉に置き換えられたのでしょう。
だからこそ、離縁された女性、若くしてやもめとなった女性たちの立場は極端に弱く、奴隷として自分を売るか、あるいは娼婦として自分を売る以外の選択肢を探すことは、極めて難しかったのです。
そして、新約聖書のマタイとルカ福音書に現れる「処女懐胎」の物語は、SEXを穢れとみなす視点を、さらに先鋭化させることになりました。
マリアはとヨセフの間にはイエス以外に、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダという子どもたちが生まれています。この子どもたちは皆、マリアとヨセフの性的関係によって生まれた子どもたちです。ところが教会は、マリアとヨセフとの間にSEXがあったことを、頑なに認めようとしませんでした。
その結果、マリアは永遠の処女とされました。ここにも、SEXを、性を「汚れたもの」とみなす視線が反映しています。
マリアには、完全なる母という理想と共に、女性が母となるために絶対不可欠な性交渉から完全に隔離され、無菌室で守られた、「汚れなき処女」という理想とが同時に投影されました。これはまったく血に触れたことの無い、ブラック・ジャックのような凄腕の外科医師を探すよりも、さらに非現実的な要求です。
キリスト教の伝統は、例え夫婦の間であろうが、子どもを作るという目的以外で肉体関係があることを認めて来ませんでした。
例え結婚していたとしても、男性側の身体的条件によってであれ、あるいは女性側の身体的条件によってであれ、子どもができないとわかっている場合、教会は、その夫婦が性的関係を持つことを許しません。なぜなら結婚の唯一の機能は子どもを作ることであり、SEXはそのための必要悪だからです。
SEXは人間が作り出したわけでも、罪の結果でもありませんが、キリスト教という信仰の内部に、SEXのための場所はありませんでした。
キリスト教信仰の内部に居場所を与えられなかった性は、抑圧されて地下に潜り、人目のつかない所で性的虐待という形を取るようになりました。そして多くの教会が、このスキャンダルとどう向き合って良いかわからず、苦慮しています。
教会における性的虐待が問題化したのは、インターネットが情報交換の手段として確立された後のことです。しかし、それ以前には教会の中に性的虐待が無かったと思うなら、それこそキリスト教の信仰が語る、罪の力の普遍性を否定することになるでしょう。
教会は、クリスマスに、闇を照らす光としてイエス・キリストが来られたことを喜び、祝います。
しかし皮肉なことに、クリスマスの度に毎年読まれる、「マリアの処女懐胎」の物語は、教会の内部に、性犯罪の被害者となった女性に、自分は「穢れている」と感じさせ、彼女たちを辱め、沈黙を強いる空気を生み出し、その暴力性を増長してきました。
教会は、この現実に向き合うべき時に来ています。
願わくは、世の闇を照らすまことの光が、キリスト教信仰の内部にある闇をも照らし、この闇に向き合う勇気と知恵とを、私たちに与えてくださいますように。