降誕日第二聖餐式 説教

25 Dec 2019


イザヤ 62:6-7, 10-12; テトス 3:4-7; ルカ 2:15-20

皆さん、クリスマスおめでとうございます!

羊飼いたちの心を喜びと、感謝と讃美で満たした方の到来を祝うために、私たちは今朝、共にここに集まっています。


今朝、福音書朗読として読まれたのは、毎年、子どもたちの降誕劇の中に現れ、そしてクリスマスに読まれる、皆さんお馴染みの箇所です。

そうです、羊飼いたちがベツレヘムに行って、天使たちのお告げの通り、生まれたばかりのイエス様を見つける、あの場面です。

しかし、私たちは今朝再び、この慣れ親しんだ物語に耳を傾けます。そして、ただ聞くだけではなく、ここで語られている事柄が、私たちの人生を方向付ける指針として、私たちの心に刻まれることを願いながら、この物語に向き合いたいと思います。

ルカ2章12説から20節の短いエピソードの中で、主役の位置を占めているのは羊飼いたちです。彼らは天使たちの知らせを聞いて、飼い葉桶の中に寝かされた乳飲み子のイエス様を見つけ出し、神を崇め、賛美しながら、帰って行きました。

たったこれだけです。劇的なところは何もありません。微笑ましいエピソードではあるかもしれませんが、かと言って特別、感動的なお話しではありません。しかし、この何気ない、小さなエピソードの中には、世界に対する神様の想いが、メッセージが込められています。

旧約聖書に登場する英雄たちには、羊飼いが何人かいます。イスラエルの民を、奴隷の地エジプトから解放した指導者モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であったエトロの羊の群れを飼う、羊飼いでした。そして偉大な王、ダビデも羊飼いでした。

ところが、イエス様がお生まれになった時代には、「羊飼い」はもっとも蔑まれた仕事の一つでした。

信仰深いユダヤ人男性は、律法に従って生活することを求められました。毎日決まった時間にお祈りをするとか、週に何回断食をするとか、安息日を守るとか、重要なお祭りの時にはエルサレムの神殿に詣でるといったことが、当然の義務と見做されていました。

しかし羊飼いたちは羊のリズムに合わせて、羊と一緒に生活をしているわけですから、そんなことはしていられません。羊の群れを率いて神殿になんか行ってられません。そもそも、エルサレムの街の中に、羊たちの餌になる草はありません。

イエス様の生まれた時代のユダヤ教にとって、安息日の遵守は最も重要で絶対的な掟とみなされていました。しかし羊飼いは、安息日だからと言って、羊をほっぽらかして、仕事をしないわけにはいきません。

そのため羊飼いたちは、イスラエル社会の中心にいて、権威を持っているとみなされていた人々から、最も重要な神の掟さえもないがしろにする、最も汚れた人々ととみなされていました。ですから、今朝の福音書朗読に登場する羊飼いたちは、単なる職業を表しているのではありません。

彼らはイスラエルの社会から排斥され、人々から蔑まれ、嫌われ、神に呪われているが故に、なんの希望もない人々のシンボルです。

マリアとヨセフは、皇帝アウグストゥスから発せられた、住民登録をせよという勅令に従って、ベツレヘムまで旅をしたと言われています。しかし、羊飼いたちは、住民登録の対象にすらなりませんでした。

彼らは、文字通り、人として数えられていませんでした。彼らは、社会に属さず、むしろ社会の秩序を危険に晒すよそ者であり、排除すべき対象とみなされていたのです。

しかし、神様は、世界で最初のクリスマス・パーティーのゲストとして、ローマ皇帝でもなく、元老院の議員でも貴族でもなく、安倍首相とそのお友だちでもなく、羊飼いたちを招かれました。

まことの光、王の王、主の主である方のもとに招かれた最初のゲストは、この世において、誰も光を当てることのない、誰も関心を向けない人々だったということです。

それは今日の文脈で言えば、難民、奴隷のように扱われている外国人研修生、言われなきバッシングに晒される性暴力の被害者たち、親の暴力に怯える子どもたち、今晩も路上で世を過ごすホームレスのような人々のことです。

ルカは、このイエス様の降誕の場面で、後にイエス様が宣べ伝え、そして打ち立て始められる神の国に、だれが最初に招かれ、その民として迎えられるかを予告しているのです。

羊飼いによって示される、蔑まれ、嫌われ、神に呪われてなんの希望もないと思われている人々は、社会から排斥される経験を通して、この世の闇を、この世の暴力を、もっとも直接的に知っています。だからこそ彼らは、神が、この世によって捨てられた人々、社会が排斥する人々、この世の闇の中に置かれている人々を探し、見出し、喜びの祝宴の場に招いてくださるというメッセージを、喜びの知らせとして受け止めます。

逆に、自分が満ち足りていると思っている人は、神の呼びかけを聞いても、それは喜びの知らせにならないのです。

しかし経済的に裕福で、はたからは恵まれているように見えながら、闇の中にいる人々、絶望している人々も沢山います。

今日、この場にも、「自分は誰からも必要とされていない」、「誰からも愛されていない」、「自分なんか生きていてもしょうがない」、そう感じている人がいるかもしれません。

しかし神様は、「あなた」を、この世界を、絶望の闇の中に捨て置くことはしません。むしろ神様は、苦しみ、悲しみ、そして絶望する者のところに、この世の闇の中に、イエス・キリストを通して降りてきて、喜びと、希望を与えようとしておられます。

イエス・キリストの到来は、神は人を、絶望の闇の中に捨ててはおかないという神ご自身の宣言であり、神がお与えになった保証なのです。私たちは、そのことを思い出すために、毎年、クリスマスを祝います。

そして、私たちが心からクリスマスを祝い、私たちの心が羊飼いの心を満たしたその喜びに満たされるなら、私たちは、この世が光をあてることのない人々のもとに、喜びの知らせを携えて行く者とされます。絶望の中に打ちひしがれる人々の中で輝く、希望の光として遣わされます。

願わくはこの朝、クリスマスの喜びが、お一人お一人の心を満たしますように。

クリスマスおめでとうございます。