主イエス命名の日 説教

1st. Jan., 2020 

出エジプト 34:1-9; ローマ1:1-7; ルカ 2:15-21

あけましておめでとうございます。皆さん、どうぞ今年もよろしくお願いいたします。

以前にもお話ししたことがありますが、私は1年の中に、特別な日というのを持たないで生きるタイプの人間です。むしろ、毎日を、決して戻ることのない、特別な日として生きたいと思っています。

それでも、皆さんが新しい1年を始める時に、共に礼拝を献げることができるというのは感謝なことで、この時を喜んでいます。

世俗のカレンダーでは、この日はただの元旦、1年最初の日ですが、教会暦では、この日は「主イエス命名の日」となっています。

私たちは物事の始まりや終わりについて話すとき、「ここでこれこれが始まって」、「ここで終わった」と、あたかも始まりや終わりが、一つの点、あるいは瞬間として捉えられるかのような語り方をします。しかし実際には物事の始まりも終わりも、時間のかかるプロセスであって、瞬間でも点でもありません。

例えば、大学生活が、4月の入学式から始まると言うことはできますが、その前には合格発表があり、その前には受験もあります。さらにその前には受験勉強の期間があります。全ての「始まり」はプロセスです。

今日の、主イエス命名の日は、イエス様が割礼を受け、イエス様がイエスと名付けられた「日」に結び付けられています。

しかし、イエス様を通して成される神の救いの業は、イエス様の割礼と命名のときに始まったわけではありません。更に、イエス様の地上での生涯すら、この時から始まったわけではありません。

イエス様の人としての歩みがいつから始まったのか。この質問に、「誕生のときから」と答えることも、「マリアがイエス様をみごもった時」と答えることもできるでしょう。

しかし新約聖書を書いた人々は、イエス・キリストを通して成就された救いのみ業は、マリアがイエス様を身籠るはるか前に始まっていたと言うようになります。

だからこそ新約聖書は、イエス様の生涯とその働きを預言者に、モーセに、アブラハムに結び付け、さらには天地創造の「前」に位置付けようとさえするのです。

しかし、新約聖書がキリストによって成された救いの御業の「始まり」について語っているときであっても、本当に重要なのは、「いつ始まったか」を知ることではなく、その御業が「今も続いている」ことです。

あえて乱暴な言い方をすれば、新約聖書が「始まり」について語るのは、イエス・キリストの働きが、「今も有効である」と言うためです。

これは現在の教会に対しても、大切なことを教えています。私たちは、教会の暦に従って、様々な日を祝います。今日であれば、なぜそれを祝う必要があるのかわかりませんが、イエス様の割礼と命名とを祝います。

しかし重要なことは、イエス様がいつ、どんなふうに割礼を授けられたかを知ることでも、命名のときにどんなセレモニーがあったのかを詳しく知ることでもありません。

大切なことは、イエス・キリストが始められた業が、今も続いているということです。教会に託された神の国の働きが、今も、ここで行われているということです。

ですから、新しい年の最初の日を祝うこのときを、神がイエス・キリストを通して始められた御業を、私たちを通して継続してくださるようにと、共に祈るときといたしましょう。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン