
5th Jan 2020
エレミヤ 31:7-14; エフェソ1:3-6, 15-19; マタイ 2:13-15, 19-23
英国聖公会のダラム教区前主教で、現在はスコットランドの St Andrew’s 大学で教授をつとめるトム・ライトという著名な新約聖書学者がいます。彼はあるインタヴュー番組の中で、ダラム教区主教時代に、あるクリスマス・イヴの礼拝後に起こった出来事について話をしていました。
彼はそのイヴの礼拝の中で、主教として、難民問題に対する教会の立場を打ち出し、クリスチャンは彼らを迎え、必要な支援を行うべきだと説教の中で語りました。
礼拝後、聖堂の入り口で礼拝参加者たちを見送るTom Wrightのもとに、一人の高齢の男性がやって来て、怒りを露わにしながら、吐き捨てるようにこう言ったそうです。「クリスマスと難民に何の関係もない!」
この言葉に対して、トム・ライトはこうコメントしていました。「彼は、聖家族が、エジプトで難民となったことを知らないようだ。」
教会が、歴史の中で、新約聖書のメッセージを歪曲してきたと語るトム・ライトらしい、皮肉を込めた一言です。
マタイ福音書の2章13説から23節のたった11節の間で、マタイは3度にわたって、預言者によって語られたことが実現したと繰り返します。マタイは、旧約聖書に語られている出来事、特に出エジプトの出来事と、イエス様を通して成される救いの御業を重ねます。
15節の「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」という言葉は、ホセア書11章1節から取られています。そこにはこうあります。
「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。」(ホセア 11)
マタイは、イエス様が成就する解放の業を、イスラエルの民が奴隷の地エジプトから解放された出来事を通して理解しているのです。さらにマタイは、イスラエルの解放をもたらす方、イエス・キリストと、エジプトからイスラエルの民を約束の地へと導き出した偉大なる指導者モーセとを結び付けます。
皆さんは、出エジプト記のモーセ誕生の場面を覚えておられるでしょうか?
エジプトにヨセフのことを知らない王、ファラオが現れると、彼はイスラエル人を嫌うようになり、強制労働を課し、イスラエルの民を虐げます。それでもイスラエル人の数が増え続けるので、ファラオはイスラエル人のすべての男子を殺害するようにと、助産婦たちに命じます。そのような中でモーセが生まれました。
モーセの母は秘密裏にモーセを生み、3カ月間、この子を隠しておきました。しかし、いよいよ隠しきれなくなると、パピルスの籠にモーセを入れて、ナイル川に流します。するとモーセはファラオの王女によって拾い上げられ、王女の子として育てられます。このとき乳母として選ばれたのは、モーセの母でした。
マタイは、イエス様が生まれた時のイスラエルの王、ヘロデを、イスラエル人男子全員の殺害を命じたエジプト王、ファラオと重ねます。ヘロデは、東方からやって来た占星術の学者たちが探し求めている「ユダヤ人の王」を抹殺するために、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を皆殺しにするように命じます。
聖家族はエジプトに逃れます。なぜエジプトなのでしょうか?
それはエジプトが「捕囚」の象徴であり、「奴隷状態」の象徴であり、モーセのように、イエス様も、奴隷状態にある人々を解放するために、最初に捕囚から解放された者であると示すためです。
マタイ2章20節で、ヨセフの夢に現れた主の使いはこう語ります。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」
ヨセフは幼子イエスとその母マリアを連れてイスラエルの地へ帰ります。この箇所は、出エジプト記4章19説と20節をモチーフとしています。出エジプト記4章19説と20節にはこうあります。
「19 主はミディアンでモーセに言われた。「さあ、エジプトに帰るがよい、あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」20 モーセは、妻子をろばに乗せ、手には神の杖を携えて、エジプトの国を指して帰って行った。」
ヨセフとマリアとイエス様は、イスラエルに帰りますが、彼らが帰ったイスラエルはエジプトです。つまり、イスラエルの民は、未だ捕囚の民であり、奴隷状態に置かれているのです。
今朝の福音書朗読は、イエス様が一体どのような世界に降ってこられたのかを、鮮やかに描き出しています。イエス様がやって来られた世界、それは、自分の権力を脅かす者なら女性であろうと、子どもであろうと、容赦無く殺す者たちが支配する世界です。
イエス・キリストの福音は、私たちに、この世の権力というものの本質がどこにあるかを見せてくれます。
この世の権力、この世の支配者はあまねく、人々のために秩序を維持するという役割を放棄して、必ず自己目的化し、自己保存を目的とするようになります。支配のために支配するようになります。その結果、自分の支配を脅かすものを、徹底的に排除しようとするのです。
この現実は、今もまったく変わっていません。
難民は、自己保存を絶対的目的とする支配者によって生み出され、自己目的化した権力に同調する者たちによって、さらなる迫害に晒されるのです。
ロヒンギャに、ウイグル人に起きていることを見てください。クルド人に、パレスティナ人に、そして中東のクリスチャンに起きていることを見てください。
そして、世界的にも類を見ない、この国の難民排斥の状況を見てください。
この国の難民政策は、江戸時代の鎖国政策の延長です。鎖国は、徳川家による支配の永続化を唯一の目的とする政策でした。265年間に渡って続く徳川の支配体制は、クリスチャンを絶滅し、キリスト教の記憶をその歴史から抹消するために考案された、様々な装置の集合体です。
実際、徳川による統治の永続化とキリスト教の根絶とはイコールでした。1633年の第三次鎖国令以降、日本人が海外に出ることも、日本人が所有する船が海外に行くことも禁じられ、海外にいた日本人が日本に戻ってくることさえも禁止されました。
さらに、ヨーロッパ人を祖先に持つすべての日本人は、日本に滞在することを禁じられ、追放処分となったこれらのヨーロッパ系の祖先を持つ日本人と連絡を取ることも全面的に禁じられました。
この国の徹底的な画一化と徹底的な排斥は、1枚のコインの裏表です。
2018年には、10,493人の難民申請があり、難民として認定されたのはわずか42人、申請者数の0.2%に過ぎません。これは異常な数字です。
日本が享受する経済的豊かさは、世界の貧しい人々の犠牲の上に成り立っています。さらに日本はアメリカ軍と一体となって、アメリカの戦争をこれまでも支えてきたし、今も支えています。
「アラブの春」以降、アメリカを中心とするNATOによるシリアへの軍事介入によって、難民の数は激増しました。日本はこれを支え、文字通り、難民を生み出しているのです。
それにもかかわらず、この国は、自分たちが生み出している難民を、まったくと言っていいほど受け入れていません。言語道断です。
さらに腹立たしいことは、このような異常な画一化と異常な排斥を行っている政府や行政について、クリスチャンがほとんど怒っていないことです。
この国はアメリカと一緒になって、私たちの主にある兄弟姉妹を迫害しています。シリアを中心とする中東全域に、3世紀、4世紀から存在して来たクリスチャン・コミュニティーを破壊し続けています。
しかし日本の教会は、熾烈な迫害に晒されている主にある兄弟姉妹を、神の家族として迎え入れることができません。こんな馬鹿げた状況を許しているのは、この国にある教会が、この国に生きるクリスチャンが、この国の支配者にいいように手懐けられて来たからです。
この国の難民排斥政策を傍観し、何の疑問も感じず、彼らの痛みには無関心で、日本人が被害者になる災害や事件にしか心を動かされないのだとすれば、私たちはこの国の支配者を主とし、この国の支配者に忠誠を尽くしているということです。
そうすることで、私たちは、主イエス・キリストを追い出しているのです。私たちはまさに、「口で主よ、主よ」と言いながら、イエス様を自分たちの中から追い出して、イエス様を再び難民にしているのです。
難民を受け入れる者は、この国の支配者には受け入れられないでしょう。しかし私たちが国を追われた者たちを受け入れることによって、この国の支配者と彼らに与する者に排斥される時、私たちは神によって、神の国の民として迎え入れられるのです。
ですから、どうぞこの年、難民となった聖家族を受け入れ、難民となった王、イエス・キリストを迎える備えをしてください。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン