
12th Jan 2020
イザヤ 42:1-9; 使徒 10:34-38; マタイ3:13-17
今日は「主イエス洗礼の日」ですが、イエス様の洗礼をめぐる福音書の記述には、奇妙な「居心地の悪さ」が付き纏っています。
今朝読まれたマタイ福音書だけではなく、マルコ福音書も、ルカ福音書も、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことを記しています。
ところで、バプテスマのヨハネから洗礼を受けるということは、ヨハネの教えを受け入れ、彼を指導者とする教団のメンバーとなり、ヨハネが始めた神の国の運動に加わるということを意味します。それは同時に、ヨハネの弟子になるということでもあります。そして、弟子になることは、師匠の権威の下に自分を置くことを意味します。
そうすると、イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けて彼の弟子となり、ヨハネの権威の下に自分を置いたことになります。
しかし福音書を書いた人たちは、ナザレのイエスがメシアであり、神の国はイエス・キリストによって到来したと告白する共同体のメンバーです。
彼らはどうにかして、イエス様はバプテスマのヨハネの権威の下にあったわけでもなく、むしろバプテスマのヨハネが、自分たちの師匠の権威の下にいるのだと言おうとしました。そのために彼らは、バプテスマのヨハネは、イエス様のために道備えをする役割を神から与えられたのだと主張したのです。
マタイ3章14節にはこうあります。
「ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
さらにマタイは、バプテスマのヨハネにこう言わせています。
「11 わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」(マタイ 3:11)
もしバプテスマのヨハネが実際にこう言っていたのだとすれば、ヨハネはイエス様が来た時点で、イエス様のために道備えをするという自分の役割を終えたことになります。そうだとすれば、彼はイエス様に後を譲り、神の国の宣教も、罪の赦しのために人々に洗礼を授けるということも止めたはずです。
ところが実際には、バプテスマのヨハネがイエス様に洗礼を授けた後、「道備への仕事は終わった!」と言って、表舞台から姿を消すということはありませんでした。
4つの福音書の中で最も遅く書かれたのはヨハネ福音書で、恐らく、紀元後の90年から100年頃に今の形になりました。ところが、この福音書を生み出した共同体の周りに、バプテスマのヨハネの弟子たちが存在していました。
紀元後の70年代、80年代、90年代に、バプテスマのヨハネの共同体が、まだ存在しているのです。そして彼らは、ナザレのイエスではなく、バプテスマのヨハネこそメシアであると信じていました。
ヨハネ福音書が書かれた時代に、バプテスマのヨハネをメシアと信じるグループと、ナザレのイエスをメシアだと信じるグループとの間にはライバル関係があったわけです。
このライバル関係の故に、ヨハネ福音書は、一方ではイエス様を徹底的にバプテスマのヨハネ権威から切り離しつつ、他方で、ヨハネをイエス様の権威の下に従属させようとしているのです。
ヨハネ福音書は、バプテスマのヨハネに、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と言わせておきながら、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことについては、一言も触れていません。それどころか、ヨハネ福音書の3章には、バプテスマのヨハネが洗礼を授けて弟子を作っていた同じ時に、イエス様も洗礼を授けて自分の弟子を作っていたと書かれています。
つまり、ヨハネ福音書によれば、イエス様はバプテスマのヨハネから神の国の福音を聞いたことも無ければ、ヨハネから洗礼を受けたことも無いことになっているのです。
更に、ヨハネ福音書には、「神の国」という言葉がたったの2回しか出て来ません。ヨハネが「神の国」に言及することを極力避けているのは、神の国運動は、元々、バプテスマのヨハネの運動だったからです。
4つの福音書がバプテスマのヨハネについて語っていることを詳細に見ながら、注意深く行間を読んでいくと、福音書がバプテスマのヨハネについて語っていることは、使徒たちとその直後の教会の立場と自己理解の投影であることがわかります。しかし、それはヨハネ自身と彼の弟子たちの立場と自己理解とは対立しています。
では、私たちはここから何を学ぶことができるでしょうか?
一つには、神様は、異なる主張をし、対立している人たちを通しても働くことがおできになると言うことができます。神様は、イエス・キリストと教会を通して働かれるだけではなく、バプテスマのヨハネと彼の弟子たちを通しても働かれたのです。
バプテスマのヨハネとイエス・キリストは、それぞれに神の国の運動を展開し、自分たちの弟子を作りました。バプテスマのヨハネの神の国の運動は勢いを失い、歴史の中から姿を消していきましたが、イエス・キリストの神の国の運動は栄え、現代に至るまで続いてきました。
しかし、バプテスマのヨハネが率いた神の国の運動が歴史の中から姿を消したからといって、神はバプテスマのヨハネと彼の弟子たちを通して働くことはなかった、ということにはなりません。
バプテスマのヨハネの神の国運動が無ければ、イエス様がヨハネから洗礼を受けて彼の弟子となることも無ければ、イエス様がご自分の使命を知ることも無かったはずです。そうであれば、イエス様の神の国の宣教も働きも無かったはずです。
しかし神は、バプテスマのヨハネと彼の弟子たちを通して、間違いなく働かれたのです。
ですから私たちは、自分と違う主張をし、自分たちと違う道をもって神に仕えようとする人々を、性急に批判したり、否定したりすることを慎まねばなりません。
同時に、私たちが学ぶべき今一つのことは、神の国の働きについて言えば、本家本元争いに意味はないということです。
恐らくバプテスマのヨハネの弟子たちの中には、自分たちこそ神の国運動の本流だという思いがあったでしょう。
「神の国の運動を始めたのは、自分たちの師匠のヨハネだ。ナザレのイエスは、ヨハネの弟子の一人に過ぎない。そのイエスが、偉そうに、神の国は自分を通して到来するのだと言い始めて、師匠と袂を分かち、独自に神の国運動を始めた。しかし所詮、ナザレのイエスと奴の弟子は、本流から外れた分派に過ぎない。」
そんな思いが、バプテスマのヨハネの弟子たちにはあったのでしょう。だからこそ彼らは、自分たちの師匠が殺された後も、ヨハネ共同体としてのアイデンティティーを守ることに固執して、イエス・キリストの神の国の運動と手を結ぶことを拒んだのでしょう。
しかし神の国の運動は、完成を迎えるときまで、運動であり続けなくてはなりません。運動は運動としての内的エネルギー、ダイナミズムを失えば終焉を迎えます。プテスマのヨハネの共同体は、運動を支えるダイナミズムを失って終焉を迎え、歴史から姿を消していきました。
今、同じことが、教会についても言えます。全世界の伝統的教会、主流派教団が、神の国の運動としてのダイナミズムを失い、終焉に向かっています。
「うちの教会にはこれだけの歴史があって、かつてはこんなに偉大な人材を生み出したんだ!」というメランコリーに耽ることは、運動の再活性化を妨げ、終焉を早めるだけです。
祈り求めるべきは、聖霊の導きによって時代を識別し、新たな挑戦に立ち向かい、神の国の共同体としての新たな生き方を見出し、運動としてのダイナミズムを取り戻すことです。運動としてのダイナミズムがあるところには、喜びがあります。喜びがない命は、生きていても死んでいます。
教会に神の国のダイナミズムが働いているかどうか、そこに命があり、喜びがあるかどうかを測るもっとも単純なバロメーターは、洗礼者が起こされるかどうかです。
そして、新たな洗礼者が一人また一人と生まれるかどうかは、すでに洗礼を受けた者たちが、喜びをもって共同体として生きているかどうかにかかっています。
感謝なことに、来週から3名の方が、イースターの受洗を目指して、洗礼の学びを始めます。
昨年の1月からほぼ毎週礼拝に来て、聖歌隊のメンバーとなり、カフェのお手伝いもしておられるOさんとNさん。そして昨年の9月からほぼ毎週、教会に来ていて、ユース聖餐式のレギュラーメンバーとなっているEくんです。
3人に共通することは、教会の中に喜びと、自分の居場所を見出したことです。
ぜひ3人の洗礼の学びが祝されるようにお祈りください。また、彼らに続く者たちが起こされるよう祈ってください。
そして、願わくは、御霊の働きによって、すでに洗礼を受けた私たちが喜びに満たされ、マーガレット教会に新たに集う方々が、私たちの交わりの中に、喜びと自分の居場所とを見出すことができますように。