顕現後第3主日 説教

26th Jan 2020 

アモス3.1-8; Iコリント 1.10-17; マタイ4.12-23

今朝の福音書朗読として読まれたマタイによる福音書4章12節から23節は、いわゆるイエス様の公生涯の始まりについて語っている箇所です。

マタイ、そしてマルコの福音書は、バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティパスによって捕らえられた後に、イエス様が宣教活動を始めたと語っています。

ルカはプテスマのヨハネの逮捕について直接言及してはいません。しかし獄中のヨハネがイエス様のもとに二人の弟子を送って、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と聞いたと書いています。(ルカ 7:19)

ヨハネ福音書だけが、イエス様の宣教活動をバプテスマのヨハネと完全に切り離し、バプテスマのヨハネとイエス様は、並行して、それぞれ別々に宣教活動を展開したと記しています。

恐らく歴史的には、イエス様は最初、ヨハネからバプテスマを受け、ヨハネの弟子となり、そして彼の神の国運動に参加したものの、早々にそこから身を引かれたのでしょう。そしてマルコ、そしてマタイ福音書が書いている通り、バプテスマのヨハネが投獄されたことを聞いた後、神の国は自分の働きを通して到来することを確信して、イエス様はご自分の神の国の運動を始めたのでしょう。

今日の福音書朗読箇所がイエス様の宣教活動の始めについて語っていることの中から、特に二つの点に注目したいと思います。

一つはイエス様が、自分の家、故郷のナザレを離れて、神の国運動の拠点をガリラヤ湖の北側の町、カファルナウムに据えたことです。イエス様は神の国の働きを開始するとき、自分の慣れ親しんだ故郷も、家族も捨てたのです。

もう一つは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言ってイエス様が神の国運動を開始すると同時にしたことは、ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネという弟子を作ることだったという点です。

福音書という書物は、イエス様と弟子たちの活動の、正確な歴史記録を残すために書かれたわけではありません。すべての福音書は、それを読む教会に対する指針となるために書かれました。ですから、イエス様の神の国の運動の始めについて語られていることは、私たちが神の国運動の後継者として歩むためのガイドラインです。

私は、たった今上げた、二つの注目すべき点、慣れ親しんだ生活を捨てるということと、弟子を作ることの重要さを、今朝、皆さんと確認することで、この説教を終えたいと思います。

ほとんど毎回のように説教の中で繰り返していることですが、教会は、イエス・キリストが始められた神の国の運動を、主が再び来られるまで続けるという使命を与えられた、旅する共同体です。教会は運動体です。しかし多くの教会が、運動体としての姿を失い、慣れ親しんだ場所に留まり、建物を維持することにほとんどすべての資金とエネルギーとを費やしています。

ところが、イエス様が神の国の運動を始めるためにしたことは、「慣れ親しんだ生活を守る」こととは正反対のことでした。神の国の運動は、故郷と家族を捨てることによって始められました。そして、神の国の運動は「旅を続けること」でした。

イエス様がカファルナウムに据えた拠点は、次の旅のための準備をするための場であり、定住するための場所ではありませんでした。そして、イエス様の神の国の宣教の旅は、神の国の民となり、神の国運動の運動員となる弟子を作ることそのものでした。

この二つのことは、教会の未来について考える上で、もっとも重要な指針となると私は信じています。

カトリックであれプロテスタントであれ、これまで通りの慣れ親しんだ生き方を続けて、教会が神の国の運動として存続できる可能性はないでしょう。教会の未来は、これまでに慣れ親しんできたものを捨てて、神の国の働きを担う運動員を作るために旅をする運動体としての姿を見出せるかどうかにかかっています。

慣れ親しんだ生活を捨てること。慣れ親しんだ場所を捨てること。通い慣れた道を離れて、新しい道を進むこと。これらはリスクを犯すことであり、安全を手放すことです。それは勇気を必要とすることです。

願わくは、神の国の運動を継続するために、キリストの霊が私たちを導き、慣れ親しんだものを捨て、神の国の運動に加わる弟子となる者見つける旅に出て行く勇気を与えてくださいますように。