被献日 説教

2nd. Feb 2020 

マラキ 3.1-4; ヘブライ 2.14-18; ルカ 2.22-40

 先週の日曜日は顕現後第3主日、つまり1月6日の顕現日の後の3つ目の日曜日でした。ですから、本来であれば、今日は顕現後の第4の主日ということになります。ところが2月の2日は「被献日」という祝日として定められているので、この主日は被献日のテーマに従って礼拝をささげています。

 被献日の福音書朗読として、ルカによる福音書2章20節から40節が定められていますが、非常に内容が込み入った箇所です。

 ルカはここで、マリアとヨセフが律法の要求をすべて満たしたと語ることで、イエス様には、律法に照らして非難されるところは何もないと言おうとしています。しかし、なぜ、わざわざそう言う必要があったのでしょうか?

もし人々がイエス様を、神を畏れ、律法を忠実に守り、穢れを避けて生きているとみなしていたのならわざわざ、「イエス様は律法の定めを守っている!」と主張する必要などありません。

 しかし、あえて律法に従っていると言わなくてはならないのは、ユダヤ教の指導的立場にある者たちから、イエス様は律法の規定を守らず、その出自からして汚れているとみなされていたからです。

イエス様は徴税人や罪人たちと食事を、そこには遊女たちもいました。しかもイエス様は、食事の前に律法の規定に従って身を清めることさえしませんでした。さらに、安息日に働くことを禁じた、もっとも厳粛な律法の規定すら守らず、平気で安息日に病を癒しました。

一言で言えば、イエス様は、律法を守り、汚れを避け、神を畏れ敬うユダヤ人ならば、決してしないようなことをしていたのです。だからこそイエス様は、悪霊の頭、ベルゼブルの力で悪霊を追い出している、などと言われていたのです。

 さらにイエス様の出自がすでに、「神を畏れ、律法を遵守し、自らを聖く保つ、敬虔なユダヤ人」ではありえないことを証ししていました。

イエス様は、ガリラヤのナザレの出身です。721年にアッシリア帝国によって北イスラエルが滅ぼされた後、ガリラヤはサマリアの一部となりました。そのためユダヤ人たちは、ガリラヤ人を異邦人と同じように穢れており、神に呪われた人々とみなしていました。

 そして、イエス様の時代、ガリラヤには多くの異邦人が住みついていました。まさにガリラヤは「異邦人の地」でした。

 ですから、律法に忠実に生き、汚れを避けて生きようと努める敬虔なユダヤ人たちにとって、ガリラヤ出身というだけで、律法が要求する聖めの要求を満たさない、穢れた者と判断するに十分でした。

 ここまで来ますと、皆さんも、ルカが何をしようとしているのかがピンと来ると思います。

 「ナザレのイエスは、その出自からして穢れている」という、メインストリームに属するユダヤ人の評価に反論するため、ルカは、マリアとヨセフが律法の命じることをすべて行なったと語っているのです。

 ルカは、マリアとヨセフが、モーセの律法の定めに従って「清めの期間」が終わった後、幼子イエス様を献げ、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽」ををいけにえとして献げるために「エルサレム」に上ったと書いています。

 しかしルカはここで、二つの全く異なる律法の規定を結び付けて話をしています。一つの規定は、「男の子を産んで穢れた女性の清め」に関する規定であり、もう一つは「男子の初子」に関する規定です。

 被献日が2月の2日に定められているのは、一つ目の律法の規定、「男の子を産んで穢れた女性の清め」に関する掟によってです。

 レビ記の12章2節と4節にはこう書かれています。「2 妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ七日間汚れている。」「4 産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」

律法の規定によれば、男の子を生んだ女性は汚れていて、40日後に清くなるというのです。12月25日から数えて今日、2月2日が40日の聖めの期間の完了の日なので、2月2日が顕現日になっているわけです。

しかも、40日間経つと自動的に清くなるわけではなくて、祭司のもとに雄羊を一頭携えていって、これを献げてもらわないと、汚れからの清めは完了しないことになっていました。貧しくて雄羊を献げることができない場合には、二羽の山鳩か二羽の家鳩を献げることになっていました。

 ここから、マリアとヨセフが貧しい夫婦であり、イエス様が文字通り、生まれながらに貧しい人であったことがわかります。

本来、「男子を産んで穢れた女性の清めの期間」に関する規定と、男子の初子と家畜の雄の初子を神に属するものとして献げよという規定に、直接的な繋がりはありません。しかしルカは、神殿を舞台に、「穢れからの清め」に関する規定と、初子を神に献げることを命じる規定とを結びつけています。

 ルカはここで、イエス・キリストが、ユダヤ人だけではなく、異邦人をも含む、すべての人を、そして造られたすべてのものを、罪から清める生贄として献げられることを予告しているのかもしれません。

ルカは、イスラエルの信仰の中心に位置する神殿にいて、信仰のロールモデルとなる二人の人物を登場させます。シメオンとアンナです。そしてこの二人は、イエス様をイスラエルが待ち望んでいた「救い」として証しします。

 しかし、「イスラエルが待ち望んできた救い」として神が与えられたイエス・キリストをめぐって、人々は対立し、分断されます。

ある人々にとって、イエス様は「人を立ち上がらせる希望」となり、ある人々にとっては躓きとなります。イエス・キリストに対する応答の中に、人々の心の中にある思いが、考えが、価値観が明らかとなります。

 ルカ福音書の中で、この分断がどこで起こるかは明白です。それは富める者と貧しい者との分断です。

 イエス・キリストご自身の貧しさは、福音の本質に属しています。イエス・キリストの福音は「貧しい者」のものであり、貧しい者に与えられました。

 ルカは貧しい者を祝福された者、金持ちを呪われた者と呼びます。イエス・キリストの福音を聞いて、救いを受け入れるのは貧しい者と、貧しい者の側につく者たちです。

 それに対して、福音に躓き、これを呪いとして聞き、この福音を語るイエス・キリストを抹殺しなくてはならないと思うのは、自分のために富を蓄える者たちです。

 金持ちは神が造られた世界の富を、祝福を独占します。富める者は、独占した富を守るために、隔ての壁を打ち立て、世界を分断し、貧しい者たちを自分の世界の外に置いておこうとします。

金持ちと貧乏人は、同じ世界に生きていません。貧しい者たちと金持ちとは、まったく別の世界に生きています。そして、ショッキングなことに、神は貧しい者たちの世界にいて、金持ちたちが作り上げる世界を分断する壁を、イエス・キリストによって崩壊させようとしているのです。

 神は、金持ちが打ち立てる分断の壁を打ち壊して世界を一つにし、平和を打ち立てるために、貧しい両親のもとに生まれたナザレのイエスを「世の救い」とされました。

 私たちは、この救いに与るように召された者たちです。ですから、どうか世界の貧しさに、貧しい者たちが閉じ込められている世界に、目を向けてください。

願わくはこの朝、主がお一人お一人の思いをあらわにされ、金持ちが打ち立てる分離壁を叩き壊すために、私たちに与えられた富と祝福を用いたいという願いを起こさせてくださいますように。