顕現後第5主日 説教

9th Feb 2020

ハバクク3:1-6; Iコリント 2:1-11; マタイ 5:13-20

「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。」Iコリント2:8

この世の支配者たちの誰一人として理解しなかった知恵。これは一体何でしょうか?

それは、神が十字架の上でこの世の支配者たちによって殺された一人子イエス・キリストを通して、暴力によって支配される世界を救われるということです。そして、この知恵は、この世の支配者たちが誰一人として理解しなかっただけではなく、最初は、イエス・キリストの弟子たちにとっても理解できないものでした。

いわゆる科学的世界観の中に生きている私たちは、キリスト教信仰の最も大きな躓きは、キリストの復活だと思うでしょう。実際、キリスト教に関心があったり、あるいは魅力を感じているけれども、復活を信じられないからクリスチャンになれないというような話を聞くことが、しばしばあります。

ところが、使徒たちの時代の教会にとって、もっとも大きな躓き、もっとも理解しがたかったことは、キリストの復活ではなく、キリストの十字架でした。

そもそもイエス様の弟子たちは、イエス様が十字架の上で死なれた後に、ガン首をならべて必死に知恵を絞り、自分たちの主人を生きていることにして、新しい政治宗教団体を作ろうとしたのではありません。弟子たちは絶望の中で、ナザレのイエスが率いた神の国運動の一味として摘発され、指導者と同じように処刑されてしまうかもしれないと恐れていました。

しかし復活のキリストが彼らに現れてしまったがために、イエス・キリストが始めた神の国の運動を引き継ぐ、教会という新しい集団が生まれてしまったのです。

しかし生まれたばかりの教会のメンバーたちは、「なぜ自分たちのマスターが、あんな苦しみを味わい、十字架の死という惨たらしい死を遂げなくてはならなかったのか」を理解できませんでした。弟子たちが十字架の意味を理解し始めたのは、復活のキリストが現れなくなってからのことでした。

復活のキリストが弟子たちの前に現れることが無くなった後も、弟子たちは復活のキリストが彼らと共にいるという「実感」を決して失いませんでした。この「実感」という言葉は、弟子たちの間にキリストがおられるという現実を表すには、まったく相応しくありません。

私たちは、自分たちが生きていることを知っています。しかし、私たちは自分の命そのものを見ているわけではありません。私たちが見ているのは、自分たちの体です。しかし、この体は、私たちが命を失った後も残ります。命は目に見えていないけれども、私たちは自分が生きていることを「実感」しています。

同じように、弟子たちは、復活のキリストが自分たちの前に現れなくなった後も、復活のキリストは彼らと共にいることを知っていました。実感していました。

そして、復活のキリストが彼らと共にいることを、彼らに実感させ、そして知らせているのは、聖霊でした。この同じ聖霊が、彼らに十字架の意味を教えたのです。

これをパウロは、「神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」と表現しています。

この世の支配者にとってもっとも重要な資質、それはkiller instinctです。自分の権力を脅かす危険があるとみなした者は、それが女性であろうと、子どもであろうと、容赦無く抹殺すること。それがこの世で支配者となるために、絶対不可欠な条件です。

そしてマタイの福音書に記された、イエス・キリストの降誕の物語は、救い主は、暴力が支配する世界に降ってきたことを描いています。

マタイが、イエス様を殺すためにベツレヘムとその周辺の2歳以下の男子を皆殺しにするように命じた、と書いているヘロデ大王は、自分の支配を守るために、妻を殺し、自分の二人の息子をも殺害しました。

この世の支配者は常に、自らの支配を永続化するために、貧しい者を搾取して貧しいままに留め置き、自分と自分の取り巻きに富を蓄積させるためのシステムを作り上げます。それは、この世の支配者は、搾取によって富を蓄積するシステム無しには自己保存できないということを意味します。

そして、この世の支配者は、支配される人々に、自分に仕えることを要求します。もちろん、被支配民には、その要求を拒否する自由などありません。支配者に対する被支配民の奉仕は、「もし拒否すれば酷い目にあうぞ」という脅迫によって担保されているのです。

十字架刑は、この世の支配が暴力と脅迫によって支えられていることの、もっとも明白なしるしです。

 ローマの支配に従わない者、皇帝の支配に逆らう者が、十字架の上で、見せしめとして殺されたからです。

しかし、イエス・キリストの十字架の死は、暴力と脅迫に支えられたこの世の支配を打ち破る、神の救いの業でした。

聖霊は、キリストの弟子たちに、この知恵を与えました。弟子たちは、聖霊の導きと働きによって、初めて、キリストの復活は、神が暴力と脅迫に支えられたこの世の支配を打ち破られたことの保証であったことを理解したのです。

今朝の福音書朗読の中で、イエス様は弟子たちにこう命じます。

「16 あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

教会の使命は、光を世に対して輝かせることです。しかし、教会がどのように輝くのか、どんな光を輝かせるのかということに注意しなくてはなりません。

クリスチャンでなくても、「良い学校」に行き、「良い会社」に就職し、「成功」することができます。

キリストの弟子でなくとも一流の芸術家になれるし、クリスチャンでなくても一流の科学者にもなれます。キリストの弟子でなくとも、ビジネスに成功して大きな利益を上げることができます。

しかしイエス・キリストは、教会がこの世の基準に従って成功し、この世で人々が求めるものを与えることで評価されことなど、一切求めていません。

むしろイエス・キリストは、聖霊によって導かれて生きる弟子たちにしか実現できない使命を与えられました。

それは、貧しい人々が祝福され、悲しむ人々が慰めを受け、声なき者たちの声が聞かれ、この世の支配体制の中で不正に苦しむ者たちが公正に扱われ、一人一人に与えられた賜物をもって互いに支え、互いの過ちを赦し、苦しみの中に置かれても、喜びを失わない共同体となるという使命です。

それは、言葉を変えれば、もしイエス・キリストの十字架と復活が無ければ、まったく馬鹿げているとしか言いようのない生き方をする者たちの集まりになるということです。

そのような共同体となれたなら、私たちは隠れることのできない山上の街のように、人々の目を引き、暴力と脅迫が支配する世界の中には決して見出しえない、希望の光として輝くことになります。

願わくは、主が約束された助け主なる聖霊が私たちを教え、導き、世の光として輝かせてくださいますように。