
22 Feb 2020
出エジプト 24:12-18; フィリピ 3:7-14; マタイ 17:1-9
今日は今週の水曜日、灰の水曜日から始まる大斎節直前の日曜日で、日本聖公会の聖書日課では大斎節前主日と命名されています。
伝統的に、大斎節直前の日曜日はラテン語の50番目を意味するQuinquagesimaと呼ばれてきました。この日を1日目と数えて、今日から50日目がイースターに当たるので、このように呼ばれてきました。そして、この主日は、大斎節への準備のときと位置付けられて来ました。
そして、この日のテーマは「慈愛」で、特祷はこのように祈っていました。
「慈愛がなければ私たちの成すことはすべて虚しいと教えられた主よ、あなたの聖霊を送り、私たちの心に最も優れた賜物である慈愛を注いでください。それは平和とすべての徳のきずなであり、この賜物無しに生きる者は、あなたの御前で死せる者と見なされます。あなたのひとり子、主イエス・キリストの功によってお願いいたします。アーメン。」
イングランド聖公会の1662年の祈祷書もスコットランド聖公会の1929年版の祈祷書も、この日の第一朗読としてコリントの信徒への手紙一13章1節から13節までを指定しています。
「1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」という言葉に始まって、「13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と語る箇所です。
そして福音書朗読は、ルカ18章31節から43節までから取られていました。
31節から34節は、イエス様が、これから自分はエルサレムに上って行き、そこで異邦人に引き渡されて侮辱され、暴力を受け、唾を吐きかけられ、鞭打たれて殺されるが、三日目に甦ると予告している箇所です。
そして35節から43節は、「ダビデの子よ、わたしを憐んでください」と叫び続ける盲人を、イエス様が癒される記事です。
ところが、私たちの今朝の福音書朗読は、イエス・キリストの栄光が現される、変容貌の場面から取られています。特祷の焦点も、キリストの栄光です。伝統的な大斎節直前の主日のテーマから、大きく外れていることは明らかです。
この日曜日の中心テーマが、このように大きく変わったのは、20世紀の半ばに始まった典礼刷新運動、liturgical movement の中から生まれた新しい伝統が、古い伝統に取って代わったためです。
この新しい伝統は、大斎節直前のこの主日を、大斎節に向けた準備の日ではなく、むしろ顕現節の頂点、キリストの栄光をもっとも鮮やかに目撃する日と位置付けました。そしてこの日を「変容貌の日曜日」(Transfiguration Sunday) と命名しました。
日本聖公会は、古い伝統に従って、この日曜日を「大斎節前主日」としていますが、この日のテーマは完全に新しい伝統、「変容貌の日曜日」に従って定められていて、聖書朗読もこれに沿った箇所が指定されています。
この日の第1朗読からも読み取ることができるように、イエス・キリストの栄光を最もさやかに示す変容貌の場面は、モーセがシナイ山の上で神の栄光に包まれ、律法を授与される場面をモチーフとしています。さらにマタイは、イエス様を「新しいモーセ」として描いています。
イエス様の時代の、宗教・政治をはじめとするイスラエルの全生活の中で、モーセに勝る権威は存在しませんでした。イスラエルの政治・宗教、そして共同体の生活全体は、モーセの律法の上に成り立っています。
皆さんがWindowsパソコンのユーザーだとすれば、メール・アプリも、ワープロ・アプリも、インターネットを閲覧するためのブラウザも、動画を見たり音楽を聴いたりするためのプレーヤーも、すべてが Windows というOS、基本ソフトの上で動いています。
同じように、イスラエルという共同体の生活は、政治・宗教・経済に至るまで、すべて、モーセの律法というOSの上で動いていました。
そしてモーセこそが律法の授与者でした。それ故、イスラエルの民にとって、モーセは絶対的権威であり、モーセに並ぶ権威は存在し得ませんでした。
しかしマタイは、イエス様を「新しいモーセ」として、いえ、むしろ、モーセの権威を遥かに凌ぐ、新しい掟の授与者であると同時に、新しい掟そのものである方として、イエス様を示そうとしています。
ペトロとヤコブとヨハネは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という雲の中から語りかける声を聞きます。
雲は神の栄光の象徴です。モーセがシナイ山の上で神の掟を授かったとき、彼は雲の中に入っていきました。マタイが、天からの声を、モーセに律法を与えた神ご自身の声として描いていることは明らかです。
律法を聞くことは、律法に従うことであり、律法に語られていることを行うことです。しかし、雲の中から響く神の声は、弟子たちに「彼に」聞け、「この者に」聞けと命じます。
ここでイエス様は、新しい掟の授与者にして、新しい掟そのものとして宣言され、神の声は、モーセに与えられた律法ではなく、ナザレのイエスに聞けと命じています。これは、イエス様の権威が、律法の授与者としてのモーセの権威に勝り、そして新しい律法としてのイエス・キリストの権威が、モーセの律法の権威に勝ることを示しています。
さらにマタイは、モーセに勝る栄光をイエス・キリストに帰します。
モーセは山の上で、神の栄光を現す雲の中に入って行きましたが、イエス・キリストは山の上で、神の栄光そのものとして輝きます。弟子たちは、キリスト・イエスの栄光の輝きに、恐れおののきました。しかし、この栄光は、奇妙で、異様で、非常識で、この世にとって理解不能な栄光であることに、弟子たちはまだ気づいていませんでした。
変容貌におけるキリストの栄光は、マタイ27章27節から44節に記されたキリストの十字架と対に、パラレルになっています。
他の者たちを連れて山に登るイエス様が、他の者たちに連れられてゴルゴタの丘に登ります。
高い山に上げられるイエス様が、十字架に上げられます。
わずかな人がその栄光を見るイエス様が、十字架の上で人々の晒し者とされます。
山上における変容貌の光が、十字架における暗闇となります。
山上で輝く衣服が十字架の上で剥ぎ取られます。
山の上で栄光を受けるイエス様が、十字架の上で辱められます。
二人の聖徒の間にいるイエス様が、二人の犯罪人の間にいます。
山上で、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言う神の声が、十字架に架けられたイエス様を見捨てる沈黙となります。
畏怖をもってイエス様の前にひれ伏す弟子たちに代わって、嘲笑と侮辱をもって兵士たちが彼の前にひざまずきます。
イエス・キリストの栄光は十字架の栄光です。それは、この世の目には見えない栄光です。聖霊によって私たちの目が開かれたときにのみ、見ることができる栄光です。
これから始まる大斎節の期間を通して、私たちは十字架に上げられたキリストの栄光を見るための準備をします。
願わくは、聖霊が私たちの霊の目を開いて、十字架につけられたキリストの栄光を仰ぎ見させてくださいますように。
そして、「主イエス・キリストを知ることすばらしさに比べたら、他の全ては塵あくたに等しい。」そう言わせてくださいますように。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン