大斎節第1主日 説教

1st, Mar., 2020

創世記 2:4b-9; 15-17, 25-3:7; ローマ 5:12-19; マタイ 4:1-11

今日読まれた創世記、ローマの信徒への手紙、そしてマタイの福音書の3つの聖書箇所は、非常に見事に、キリスト教の教義のひとつ、原罪論のスタンダード・モデルを展開するように配置されています。

第一朗読は、最初の人、アダムとエバが、蛇にそそのかされて、神が食べてはならないと命じた木、園の中央にある善悪の知識の木から取って食べてしまう物語です。

そして、この創世記の物語の解釈として、パウロが書いた、ローマの信徒への手紙5章12節から11節が提示されます。

一人の人、アダムによって罪が世に入り、その罰としての死を招いた。そして罪とその罰としての死は、すべての人の運命となった。しかし、一人の人、イエス・キリストの正しい行いによって、すべての人に永遠の命を得るための道が開かれた。パウロはそう語ります。

そして福音書朗読のイエス様が荒野で誘惑を受ける記事は、このパウロの解釈に承認を与える役割を担っています。

アダムは悪魔の誘惑に負け、不従順によって罪と死もたらしたけれども、イエス・キリストは従順によって悪魔の誘惑に打ち勝ち、それ故、罪人に命をもたらすことができるのだ。

そう読ませるために、聖書日課はこの日の朗読箇所を、このように配置しているのです。こうして、最初の人アダムがもたらした罪と死と、第二のアダムであるキリストがもたらした義と命が、シンメトリックで美しい並行関係として描かれます。

大斎節第1主日の朗読箇所が、原罪の教義を見事に展開していることは間違いありません。しかし教義と、その教義の根拠とされる聖書テキストとの間には、多くの場合、大きな緊張があります。

特に、教義の根拠とされるテキストがヘブライ語聖書、旧約聖書から取られている場合、テキストが「正しく」解釈されているケースはほとんどありません。実はパウロ自身さえ、第1朗読で読まれた創世記のアダムの物語を、「正しく」解釈してはいません。

今朝読まれた創世記のアダムとエバの物語は、罪が世に入ったことを語る物語でもなければ、ましてや、アダムとエバの罪の結果として、すべての人が死ぬようになったことを語る物語でもありません。

もちろんイスラエルの人々は、世界に悪があり、人が罪を犯すことを知っていました。しかし、旧約聖書中のどこにも、罪や悪の原因や理由を説明するために「アダム」が引用されている箇所はありません。

そもそも「アダム」という名前は、創世記に6回出てくるだけで、それ以外のところにはほとんど出てきません。ヨシュア記で1回、第一列王紀に1回、ヨブ記に1回、計3回出てくるだけです。

そして、旧約聖書のどこにも、最初の人アダムが罪を世界に引き入れたと語る箇所はありません。

旧約聖書のどこにも、アダムの罪の結果として、すべての人間が罪を犯すようになったと語る箇所はありません。

旧約聖書のどこにも、アダムが神に逆らったために、すべての人が死ぬようになったと語るところもありません。

そもそも、神がアダムとエバに、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じたとき、彼らは善悪という識別力を持っていないのですから、彼らが善悪の知識の木から取って食べてしまった行為は、善でも悪でもありません。

実際、創世記3章のアダムとエバの物語の中には、「罪」(חַטָּא)という言葉も、「悪」(רַע)、という言葉も、「反逆」(מְרִי)という言葉も、「違反」(פֶּשַׁע)という言葉も、「とが」(אָשָׁם)という言葉も、それに関連する言葉も、一切出てきません。

さらに、アダムとエバは、善悪の知識の木から取って食べる前には不死だったわけでもありません。

「あなたがこれこれのことをしたなら、必ず死ぬ」という警告は、それを成した者が、罰として直ちに死ぬことを想定した警告です。「死すべき者」に対する警告だからこそ、死は罰であり得るのです。

しかも、この物語の中で、正しいことを言っているのは、むしろ蛇です。アダムとエバの目は開かれ、彼らは善悪を知るようになり、知識を得ました。しかし彼らは死にませんでした。

もちろん、最後には彼らも死にます。しかしアダムが死ぬのは930歳のときです。それはイスラエルの人々の目には、祝福された者が享受する死です。

アダムとエバが、善悪の知識の木から取って食べたからと言って、神と人との関係が崩壊したわけでもありません。

旧約聖書は、人は罪を避けることができることを前提としています。そして、旧約聖書は常に、神に逆らう者たちと、神の前に正しく歩む者たちとという、二つの異なるカテゴリーに属する人々がいることを想定しています。

だからこそ詩篇のある作者は、「主はわたしの正しさに報いてくださる、」が「心の曲がった者には背を向けられる」と言うのです。

旧約聖書を書いた人々は、「悪の起源」を問うことも、「死はどこから来たのか」と問うこともなかったようです。

しかし、イスラエルの人々がヘレニズムと接するようになると、ギリシアの知恵を受け入れ、ユダヤ教の中にギリシア的思弁を導入する人たちが現れます。そして、後期ユダヤ教の知恵文学に属する書物を書いた人たちの中に、罪と死の起源をアダムに帰する人たちが出てきました。

例えば、第二聖典の『ソロモンの知恵』2:23, 24節にはこのように書かれています。

「神は人間を不滅な者として創造し、/御自分の本性の似姿として造られた。24 悪魔のねたみによって死がこの世に入り、/悪魔の仲間に属する者が死を味わうのである。」

このように紀元前2世紀、あるいは1世紀のヘレニズム時代のユダヤ教文学の中で初めて、アダムは罪の起源とされ、アダムによって死がもたらされたという解釈が生まれました。

しかし、アダムが罪の起源であり、アダムの罪の罰として、すべての人が死ぬことになったという解釈は、創世記3章の物語の、スタンダードな解釈として受け入れられたわけではありません。

むしろ、ほとんどのユダヤ教徒はこの解釈を退けました。ユダヤ教が原罪という教義を完全に否定している事実が、これを証明しています。

もちろんイエス様も自身も、アダムに全く言及していません。新約聖書の中で、パウロ以外の誰も、イエス・キリストの救いについて語るために、アダムに言及してはいません。

ではロマ書5章で、パウロは一体何をしているんでしょうか?パウロは、死と悪の起源を明らかにしようとしているのではありません。彼は、イエス・キリストがすべての人の救い主であることを説明するための道具として、全人類の始祖として創世記に登場する神話的人物、アダムを、創造的に用いているのです。

パウロが、ユダヤ教の伝統の中でほとんど注目を浴びることも、言及されることもなかったアダムという神話的人物を引っ張り出して、イエス・キリストについて語らなくてはならないのは、神がキリストを通して与える救いは、人間の期待を全く超えるようなものだからです。

思い出してください。イエス様の弟子たちは、誰一人、復活など待ち望んでなどいませんでした。彼らは復活にも、死後の運命についても、何の関心もありませんでした。

彼らが待ち望んだ「救い」は、憎き敵、ローマ帝国の支配が打ち破られ、イスラエルの栄光が回復されることだけでした。

イエス・キリストの復活によって神が実現する救いの業は、単なるユダヤ教の延長として語ることができるようなものではありませんでした。もちろん、ギリシア哲学の延長として語ることもできません。

神が、十字架の上で死に、復活させられたイエス・キリストを通して実現される救いは、私たちの期待も、知識も、想像力も遥かに超えた、驚くべきものです。

皆さんどうぞ、この大斎節のとき、自分の願いや期待が裏切られ、神様によって驚かされる心の準備をしてください。

父と子と聖霊の御名によって。アーメン