
2020年5月20日
カナダのトロント大学トリニティー・カレッジで神学部長を務めているクリストファー・ブリテンは、私がアバディーンで最初の指導教授としてにお世話になった方です。
彼がカナダの聖公会系オンライン新聞に、今後の聖餐式再開について考える上で、非常に示唆に富んだ論考を掲載しました。その記事を本人の許可を得た上で翻訳しましたので、ここで共有させていただきます。
なお、原文は以下のリンクから読むことができます。
The Eucharist and coming out of lockdown: A tract for these COVID-19 times
「聖餐と出ロックダウン―COVID-19に揺れる時代のための一考察」
クリストファー・クレイグ・ブリテン (Christopher Craig Brittain)
2020年5月14日
COVID-19によって突きつけられている試練は数知れない。危機が高まる中で聖餐を行うべきかどうか、あるいは都市封鎖による制限が徐々に解除されつつある中で、いつ(洗礼・堅信の)サクラメントを再開するかといった議論は、典型的なケースである。以下で私は、教会が現在取っている方策は「主の食卓における断食」ではなく、むしろ聖餐共同体という教会のアイデンティティーによって培われ、形成された「霊的陪餐」の一つのあり方であることを論じる。いつ、どのようにして、公的礼拝の制限を緩和するかについて考えるとき、この同じ聖餐理解がアングリカンの教会を導くべきである。
聖餐執行停止措置に対する過剰反応
パンデミックの発生以来、全世界で、アングリカンのほとんどの教会が聖餐執行停止措置を講じた。ある人々はこれによって混乱し、この措置が「聖餐の終わり」を記すことになるのかとの疑問の声をあげた。他の人々は、イングランド聖公会がメンバーたちを「個人化」することで失望させたと言って非難した。
聖餐停止という教会の決定に対して抗議する人々が掲げる理由は様々である。ある人々は、政府の政策によって発せられた命令に教会が屈して、聖典へのコミットメントを放棄したと言って非難する。他の人々は「必要不可欠なサービス」の定義をめぐる議論に加わって、教会が閉じている間にも、酒屋は営業していると言って嘆く。
(政府に膝を屈めたという)最初の非難は、19世紀のオックスフォード・ムーブメントに息を吹き込んだ問題の核心―政府が教会のアジェンダを決定することへの恐れ―に触れるものだ。しかし、カナダ聖公会の主教たちによる決定に、これはまったく当てはまらない。都市封鎖が始まる前から、多くの教区は杯を取りやめて(一種陪餐とし)、平和の挨拶も禁止したことを思い出そう。言葉を変えれば、教会は、COVID-19感染拡大への対応において、政府に先んじていたのである。アングリカンの教会は、自らの基準に基づいて、確固とした神学的及び牧会的根拠から、通常の礼拝のあり方を変更するという決断を下したのである。だから、政府の政策から出てきたアジェンダに合わせて私たちの指導者が教会の伝統を犠牲にしているという非難は、まったくの的外れだと私には思われる。
また、酒屋と超大型スーパーは閉じていないのだから、教会も開いて聖餐式を行うべきだという主張が見られることも奇妙である。この立場は、アングリカンの教会は、教会が置かれている地域社会の消費行動に合わせるべきだということを意味する。「私たち」も「彼ら」のように生活することができるようにすべきだと主張することは、議論にはならない。それは、他の人々のやっていることを模倣したいという妬み、あるいは願望のしるしである。
それでは、アングリカンの教会がパンデミックという状況の中で聖餐執行に関する決断を下す時、それは何に基づいてなされるべきだろうか。更に、教会指導者たちは、いつ聖餐式を再開するのかを、どのように識別すべきだろうか。このような問いについては、聖書とキリスト教の伝統が、私たちのリーダーたちを導くべきである。
聖書と伝統からの議論
パンデミックの最中で聖餐式を行うことについての手引きを求めるなら、パウロがコリントの教会に宛てた最初の手紙(11:17-34))は良い箇所である。ここでパウロは、コリント教会の聖餐の持ち方について批判をしている。「次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。」(17節)パウロは何が問題だと考えていたのだろうか。彼は「お互いの間に仲間割れがあると聞いて」おり、このために「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(20節)と述べている。これは、とりもなおさず、「各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だから」である。
聖書学者のバレット (C. K. Barrett)は、パウロが言及している「仲間割れ=分断」は、主に、裕福な者たちと貧しい者たちとの階級差であることを強調している。他の者たちが何にもありつけない間に、ある者たちは宴会を行うために教会に来る。そのようにして、この儀礼(=聖餐)はキリストの体と血に共に与ることではなく、個人的な食事に矮小化されてしまう。パウロにとって、共同体の他の人々の必要を顧みずにパンとぶどう酒を食すことは、「ふさわしくないままで」(27節)食べることを表している。パウロは、身をわきまえずに主の食卓を祝う者は、自分たちに対する裁きを飲み食いしていると主張しているのだと、リチャード・ヘイズ (Richard B. Hays) は結論する。何のために教会が集まるのかをふさわしく認識するためには、教会が「キリストの一つの体」であることを認めることが必要である。
これは、COVID-19の最中における聖餐執行停止措置とどのような関係があるだろうか。もし、ウイルスの感染拡大が続く中で、教会がただ聖餐式を行うために集まることを再開するなら、共同体の中に自ずと分断が固定化されよう。すなわち、安全に参加できる者たち(例えば、車で移動できる人々)と、そのような状況によってさらに危険な立場に置かれる者たち(例えば、参加するために公共交通機関を使って移動しなければならない高齢者たち)との間にである。現状においては、聖餐式が、より特権的な地位にあるメンバー、あるいは移動手段を持っているメンバーによって行われる祝宴となるのを避けることはできない。この現実を無視することは、「ふさわしくないままで」聖餐に与ることを人々に勧めることである。
キリスト教の伝統からの議論として、もしアングリカンの教会が1549年の最初の祈祷書を振り返ってみるなら、イーモン・ダッフィー (Eamon Duffy) のような学者によって、次のことを思い起こさせてもらうことが有益であろう。すなわち、病気によって十分な人数(3人、あるいはそれ以上)を、安全に集めることが不可能となったなら、聖餐式を行うことは許されなかった。代わりに、「口でサクラメントを受けることは無くとも」、祈りによって(与えられる)「キリストの恩恵は、(聖餐を通して与えられる恩恵と)同じように、魂の健康に有益である」と教えられたのである。この「霊的陪餐」の伝統は、教会が安全に聖餐を行うことができない時期においても、クリスチャンは自分たちの間にキリストがおられ、働いておられることを確信できることを示唆している。
教会の最初期から、疫病が蔓延する時に、クリスチャンが隣人たちからの称賛を得ることになったのは、危険を顧みずに聖餐を行うという決意のためでは無く、むしろ困窮する人々を尋ね、彼らに仕えたからであった。紀元後249年から262年の間にパンデミックがローマ帝国を襲ったとき、カルタゴの主教キュプリアヌスは、病で犠牲となった人々のために悲しむことよりも、病む人と危険な状態にある人々に対するケアに集中するようにと教会に指示した。キリスト教史におけるこの模範こそ、社会学者のロドニー・スターク (Rodney Stark)を、最初の4世紀における教会の成長は、大部分、特に疫病の時に、クリスチャンたちが病者に示したケアと憐みの態度によってもたらされた、との結論に導いた。
このような視点は、聖餐の軽視やその終わりを示しているのではなく、サクラメントの実践によって深く養われる教会から当然出てくるのである。キリストの体と血に与ることを通して、クリスチャンは心と精神を神によって養われる。私たちはキリストの体に与ることによって形造られてきたのだから、共同体の他のメンバーの福祉にも気を配らずにいることはできない。そのような共同体として、パンデミックの最中で聖餐停止の措置を課すことは、聖餐を放棄することでも、あるいは主の食卓で断食することでもない。それはむしろ、聖餐共同体としての教会のアイデンティティーを生きることの当然の帰結である。
もし、パンデミックのときに聖餐を停止するという措置が、単に現実的で賢明だというだけではなく、むしろ教会の召命に対して忠実であることを、聖書と伝統が示唆しているとするなら、それはクリスチャンとクリスチャンの神に対する関係をどこに置くことになるだろうか。
荒野における霊的陪餐
ここで私たちは、空腹な者は「家で食べる」ように(コリントI 11:34)というパウロの忠告に聞き従うべきである。食すことのできる聖別されたパンとぶどう酒が無いのだから、私たちは、神が荒野でイスラエルの民を天からのマナによって養われたように(出エジプト16章)、すべての人が共にやって来て安全に聖卓の周りを囲むことができる時まで、神は霊的陪餐を通して私たちを養ってくださることに信頼しなくてはならない。
私たちの多くが、「霊的陪餐」を、主の食卓でキリストの秘蹟的体と血に与るという経験に完全に代わりえるものとは見なさないことを、私も分かっている。ここで、神が荒野で備えられた「天からのパン」にイスラエルの民が初めて遭遇した時の反応は、「これは何だろう」(出エジプト16:15)であったと思い起こすことが助けとなろう。それを食すために、彼らは説得されねばならなかった。また、説得されてもなお、彼らはかなりの愚痴をこぼしながら、これを食べた。時に私たちは、神が何を持って私たちに恵みを与えてくださっているのかを識別することを学ばなくてはならない。
聖餐の制限を緩和すべき時かどうか
現在、カナダのいくつかの州と他の国々が、都市封鎖の制限緩和を始めている。ドイツでは、20人を上限に教会の礼拝が認められている(歌わない限りにおいて)。同時に、多くの人たちが、制限緩和の開始が早過ぎると懸念している。ドイツ、中国、韓国では新たな感染が起きており、都市封鎖の制限が今後何ヶ月も続けられねばならないということも、充分にあり得る。
「再開」を考えている多くの州では、制限廃止のための異なる段階が設けられた。第1段階は特定の職種と公共スペースの限定的再開を含む。第2段階はさらに多くの職種と公共スペースの再開を認める。この両方の段階は、社会的に弱い立場の人々に対する保護を伴う。第3段階において、より広範な再開が認められる。
キリスト教会が、多くの高齢メンバーと、その他にも健康上の問題がある人々を抱えていることを考慮すれば、COVID-19のパンデミックという文脈において、幾人かのメンバーたちは「社会的に弱い立場」の人々に分類されるだろう。これは、教会が置かれている地域の文脈において第3段階が達成されるまでは、聖餐停止措置が継続される必要があるかもしれないことを示している。最低でも、第2段階の間は、教会は限られた人数での公的礼拝の再開のみを認めるべきである。しかし、そのような決定について考慮する人々はまず、パウロが、キリストの体の中に「分断」をもたらすと語るような結果とならないよう、細心の注意を払わねばならない。
サクラメントの祝祭が再建されることを待ち望むのは、まったく理解できることであり、相応しいことでもある。しかし、パウロが私たちに思い起こさせるように、そのような個人的願望は、忠実に神を礼拝するための根拠とはならない。その代わりに、私たちは、神が私たちに天からのパンを送ってくださることを思い起こすことによって慰めを受け、キリストが霊的陪餐を通して私たちと共におられるという教会の教えに聞き従うように、神に召されているのである。これは、御霊の力によって、私たちが相応しい者として聖餐を祝うことができる時まで、私たちが忍耐強くあることを可能にしてくれるだろう。
クリストファー・クレイグ・ブリテン (Christopher Craig Brittain) はトロント大学トリニティー・カレッジ神学部長、マーガレット・E・フレック (Margaret E. Fleck) 講座座長。