

クリストファー・クレイグ・ブリテン (CHRISTOPHER CRAIG BRITTAIN)
2020年5月25日
Anglican Journal https://www.anglicanjournal.com/on-virtual-communion-a-tract-for-these-covid-19-times-ii/
COVID-19のパンデミックを受けて、オンラインの「仮想聖餐」を行うことを提唱するクリスチャンたちがいる。仮想聖餐式とは、ソーシャルメディアのプラットフォームを利用する個人の集まりであり、司祭が感謝聖別祷を唱えている間に、参加者は自分のコンピューター画面の前にパンとワインを置く。そして、参加者たちはパンとぶどう酒を食し、この礼拝を聖餐と称する。
現在の都市封鎖を受けて、アングリカンのいくつかを含め、多くの主流派教会が基本的に仮想聖餐を認めていないことが、批判されることとなった。この議論には多くの異なる問題が絡み合っているため、複雑で異論の余地がある。以下の論考は、このトピックに関連する厄介な問題の糸の何本かを解きほぐす。なお、ここでの言及は特に「仮想聖餐」の問いに焦点を当てており、より広範な「仮想礼拝」にまで触れるものではない。パンデミックの間にオンラインで行われている祈りに対する批判もいくつかあるものの、こちらについては、仮想聖餐に対するより広範な支持がある。
支持者に耳を傾ける
仮想聖餐の支持者たちによって展開される最近の議論には、少なくとも4つの流れがある。ある人々は、この新機軸に反対する者すべてを、エリート主義から来る教役者中心主義だと非難する。他の人々は、教会がオンライン聖餐に反対するのは時代遅れで、刷新に失敗してきたからだと主張する。信徒たちが求めている、サクラメントに与る機会を提供しようというのが第三の関心である。最後に、教会の営みにおけるサクラメントの中心的位置を強調する人々は、聖餐を核とする教会のアイデンティティーそのものが、実際に集まって聖餐を祝うことが不可能な時にあって、仮想聖餐を必然的なものとしていると論じる。私は以下で、これらの立場を一つ一つ順番に考察する。
第1の流れ:「我らを教役者から解放せよ」
CMS (Church Mission Society) のパイオニアの一人、ジョニー・ベイカー (Jonny Baker)にとって、仮想聖餐は主教や教役者たちによって押しつけられる「宗教的支配の力に対抗する」ための、一つの方法である。イングランド聖公会は、聖餐に制限を課すために、「サクラメント神学やもっともらしい企み」に言及するけれども、「本当のところ、それは支配の問題である。これらは、教会が構築し、作り出したものであって、それ以外の何ものでもない」とベイカーは言う、同じように、ダイアナ・バトラー・バス (Diana Butler Bass) は、アメリカに拠点を置くエピスコパルの教会は、仮想聖餐を禁じて、信徒たちから(取り上げて)「聖餐を貯め込んでいる」と非難している。
アングリカンの伝統から見ると、こうした反組織主義に基づいて仮想聖餐を支持する議論は、信徒による聖餐執行(すなわち司祭は不要)と主教(制)廃止の支持を意味することと極めて近くなる。もし、主教や教役者に聖餐式の行い方について監視(あるいは監督)させることは不適切な支配であり、教会の訓告に抵抗することそれ自体が、概して、称賛すべきこととと見なされるのなら、司祭と主教の存在意義は何であろうか?このような結論を下す会衆主義の教派もあるけれども、それは、アングリカンのような、サクラメントを重要視する教会の伝統ではない。更に、議論がそのような調子を帯びる場合でも、その根拠となるようなサクラメント神学が明確に存在するわけでもない。
第2の流れ:「時代遅れ」の教会への抵抗
ダイアナ・バトラー・バス (Diana Butler Bass) は次のように論じている。「教会は、新しいテクノロジーの有する、共同体を生み出し、人々を結び合わせ、人々がその中で自分の人生において取るべき行動について決断を下す道徳的枠組みを据える、並外れた力を認めることに失敗している。これこそ各教団教派が、未だに理解せずにいることである。」同じような路線で、ルター派の神学者ディアナ・トンプソン (Deanna A. Thompson)は、現実/仮想、身体的/非身体的といった二元論を問題視し、これに挑戦している。彼女にとって、仮想的集まりは、「集まり、結びつき、礼拝する真の経験」であり、それ故、一つの地理的空間に人々が物理的に集まることと、仮想空間で個人個人がオンラインで集まることとを区別するべきではない。このような根拠に基づいて、この二人の神学者は、仮想聖餐は実際に集まって行われる聖餐式と同じであると示唆している。
このような議論は、多くの人々がインターネットを介して他の人々と繋がることを重要視している現実を強調する上で有益である。例えば、家から出られない人々や、あるいは健康を蝕む病と共に生きる人々にとっては、ソーシャルメディアによって他の人々と繋がることは、生命線のようにすら感じられるかもしれない。バスやトンプソンのような主張の問題点は、仮想的集まりが「共同体」として経験されうるという理解ではなく、仮想的集会も人々の物理的集まりと同じ類の共同体であるとの主張である。
新たな情報通信技術が人間関係とアイデンティティーに及ぼす影響について、相当な数の研究論文や文献が世に出ている。こうした研究は、益々、インターネットやソーシャルメディアの否定的影響についての懸念を取り上げている。いくつかの研究は、オンライン上の結びつきが人間生活の情緒的側面に否定的影響をもたらすことを示唆している。学術的研究を超えて、新聞も、定期的に、利用者の過半数が何かをオンラインで投稿して後悔したことがあると報告し、注意が向く領域と記憶に対する変化を立証し、インターネットが忍耐力の欠如と即時的承認欲求を助長すると警告する種々の調査に言及している。こうした証拠は、インターネットを利用するべきではないということを意味するのでもなければ、インターネットがもたらす重大な恩恵を否定するものでもない。私が言いたいのは、単に、デジタルメディアやオンラインでの活動には、長所もあれば短所もあるということだ。
だからこそ、バスやトンプソンのような神学者たちの主張を、さらに批判的かつ詳細に調査し、神学的に考察する必要がある。オンライン「デート」と、ロマンチックなディナーの時を共に過ごしてパートナーになるかもしれない人を知ることを比較してみれば、仮想(空間)での出会いと対面での出会いとの重大な違いを際立たせる助けとなろう。現在のパンデミックによってもたらされたいくつかの例も、私たちが考えるためのいとまを提供してくれる。ニューヨークタイムスの最近のコラムのひとつは、多くの人々がオフィスで同僚と一緒に働けないことに寂しさを感じており、それがどれ程のものかを取り上げた。オンライン会議は、益々、対面でのやりとりとは質的に異なるものとして経験されている。同じように、私はここ何週間かの間に、葬儀を行ない、悲しむ遺族にオンラインで牧会的ケアをすることの困難さについて教役者たちが嘆いているのを耳にした。一人の牧師が私に言ったように、「何ものも、触れることと抱きしめることの力に代わり得ない。」
更に、私たちとオンラインで関わる人々は、ただ私たちが画面に現れる有様でしか、―私たちが「ミュート」したり、気分に応じてカメラを切ったりすることのできない公共空間で、私たちが他の人々にどのように関わるかに応じてではなく―私たちを経験しない。確かに、オンラインネットワークは「共同体」の一つの形であるかもしれないが、それらは非常に異なる形態の集まりである。仮想聖餐を支持する神学者たちは大抵、(仮想聖餐が)聖餐の実践とその意味に対して及ぼす相違を取り上げない。
第3の流れ:教会のメンバーに対する牧会的配慮
教会のメンバーの必要に応えるという主張は、仮想聖餐の弁護としてより説得力がある。イングランドの司祭ダナ・ディラプ (Dana Delap) が Zoom を使って聖餐を提供すると言うとき(そして彼女自身が認めているように、彼女の主教の権威に従うことを拒んで)、彼女が(そうする)理由は単純だ。仲間のクリスチャンたちが、「信仰の旅の途上で自分たちを支えるために、それを必要としている」のである。サクラメントを執行し、人の必要に応えることは司祭職の中心的働きではあるが、問題はディラプが言うほど単純ではない。ディラプに対する補足として、以下の細かな点について考えてみよう。
第1に、聖餐執行停止措置というのは、単に、教役者たちが信徒からサクラメントを取り上げる決定をするということではない。クリスチャンが聖餐に与ることを妨げているのはCOVID-19のパンデミックである。第2に、もし神の民が聖餐に与ることができないなら、神はご自分の民を養うことができないと言うことが有益だろうか?聖霊の働きは、本当に、それほどまでに制約されているのだろうか?第3に、教会のメンバーが表明するすべての必要や願いが、求めるままに、必ずしも充足されなくてはいけないわけでもない。出エジプト記32章で、モーセが「サバティカル」(研究休暇)に出てしまったとき、人々の霊的求めに対する大祭司アロンの応答は、金の子牛を与えることだったことを思い起こそう。その結果は、神に喜ばれるものとはならなかった。
ディラプが、彼女の行っている Zoom による聖餐式は「日曜日に始まり土曜日に至る生活の内に、神のためのの聖なる空間を作り出していると言うとき、彼女は奇妙なサクラメント理解を表明している。神への礼拝が、すでにそこにおられる神のために「空間を作る」ことはない。むしろ、聖餐を伴う礼拝は、神の臨在と創造に関わるパターンの中に、身体的に参与することである。聖餐は、魔法の呪文のように、神の存在を捻り出すわけではない。むしろ聖餐は、単に想起することによってではなく、キリストの体として呼び集められた民という私たちの真のアイデンティティーを具現化することによって、「空間を作る」ようにと私たちを招くのである。キリストの体なる民の召命は、神と共に、天におけるように地において、神の国を建て上げる働きに参与することである。このために、エピスコパルの神学者スコット・マクドゥガル (Scott MacDougall) は次のように警告する。オンラインで仮想聖餐を見るという考えは、「聖餐を見るという中世の慣行を終わらせた典礼改革を転覆させる恐れがある。なぜならそれは信徒を無力化し、すべての信仰者が司祭であることを侮ることだからである。」
第4の流れ:聖餐を核とする教会のアイデンティティー
ここで私たちは、仮想聖餐を考える上で最も説得力がある理由と私が見なしている点に至る。すなわちアングリカンの神学と霊性における聖餐の中心性である。
プロテスタントのある教派にとっては、聖餐はキリストの「実在」に参与することではなく、単なるイエスのミニストリーと死の想起であると理解されていることは注目に値する。このサクラメント理解であれば、仮想聖餐を支持する神学的議論を展開する困難はより小さくなるだろう(それでも私はそのような結論に同意しないが)。しかし、聖餐におけるキリストのサクラメント的実在を告白する、典礼に重きを置く教会にとっては、「仮想的主の晩餐」という観念に意味を与えることは、遥かに困難である。それは、(キリストの体なる)共同体の身体的集まりの中にキリストがおられるという聖餐理解の故である。
ところが、聖餐におけるキリストの実在に関する強固な神学を保持するある人々の間では、長期に渡ってサクラメントから切り離された教会とかキリスト教の宣教活動といったものは考え難い。教会と聖餐との非常に強固な結びつきの例として、ローマ・カトリックの神学者、アンリ・ドゥ・リュバック (Henri de Lubac) のこの発言を取り上げてみよう。「教会が聖餐を生み出したが、聖餐もまた教会を生み出す。」ローワン・ウィリアムス (Rowan Williams) も同様の理解を示して、「教会はサクラメンタルな礼拝に与っているとき、もっとも真実にそれ自体になる。それは何よりも、教会が聖餐のために集うときであり、(そのとき)教会はその最も深遠なアイデンティティーを表現する。」こうした言葉は、聖餐執行停止期間が、教会の存在を危機に晒すということを意味するのだろうか?もし、正教会の神学者ジョン・ズィズィウラス (John Zizioulas) が言うように、聖餐が「教会論の鍵」であるとするなら、ある人々は、COVID-19による都市封鎖の間、教会のアイデンティティーとミッションを堅持するために、教会は仮想聖餐を行わねばならないと主張するかもしれない。
私は、この結論に飛躍することは誤っていると思う。ドゥ・リュバック、ウィリアムス、そしてズィズィウラスが、聖餐についてこのような強い表現を用いているのは、現代の個人主義的傾向に挑戦するためであるということは注目に値する。彼らにとって、主として、サクラメントは個人の内的敬虔に向けられているのではない。むしろ、それらは集められた神の民なる教会の共同体的性格にとって不可欠なのである。ウィリアムスは、「サクラメントの実践は、私たちの選択によらない、喪失、依存と相互依存、連帯について、もっとも明白に語る」と論じている。このような理解は、聖餐が、それを求める個人の願望に基づいて提供されるべきだとの考えや、今現在、聖餐が行われていなければ教会は存在できないという想定を助長するものではない。
更に、教会の存在が、その始めにおいて、人間の決定に依存していると示唆することは間違いであろう。それは、ジョン・ウェブスター (John Webster) の強調する、「教会はその起源を神の善に有する」という事実を無視することだ。聖餐と教会は受肉のイエス・キリストによって生み出され、形づくられるが、この点が三位一体の他の二位格―創造主なる神と聖霊なる神―の働きを排除するように展開されてはならない。ローワン・ウィリアムスが、「サクラメントはキリストを神不在の場所に連れて行きはしない」と言うとき、この点を強調しているのである。
これは、仮想聖餐支持者たちが、オンラインメディアを通じて交流する人々にも神は共におられるという主張に基づいて(仮想聖餐)を擁護するとき、私がなぜ気乗りしないのかを説明している。明らかに、そのような出逢いにおいても、神は共におることができる。これが本当だからこそ、私は、オンラインで祈ることにも、礼拝することにも、何の問題もない。しかし、神が共におられるか否かが、仮想聖餐をめぐる議論に決着を付けるわけではない。むしろ問題は、私たちがどのように互いに対して、また私たちの隣人に対して現れるかに関係している。
実践としての仮想聖餐について
アングリカンの伝統において、聖餐に関する様々な議論が、16世紀のイングランドの神学者、リチャード・フッカー (Richard Hooker) の助言を方向付けた。彼はクリスチャンたちに、「どのようなやり方でと論争するよりも、沈黙をもって、サクラメントによって私たちが何を受けるのかを思い巡らすようにと勧めた。これは、聖餐をどのように祝うかはどうでもいいというのではなく、どのように、どこにキリストがおられるのか(物理的なパンとぶどう酒の中に?信仰者の心の中に?)と言い争う代わりに、むしろ、クリスチャンはまず、聖餐の中にキリストがおられるという現実に焦点を当てるべきだということである。
仮想聖餐をめぐる議論は、聖餐とは何であり、それは何のためかということに焦点を当てるのとは反対に、サクラメントがどのように機能するのか(キリストは Zoom の集まりに共におることができるか)という論争に陥る危険を孕んでいる。
概して、アングリカンのサクラメント神学は、キリストの体と血を受けることによって、神の民がどのようにして、ただキリストとだけではなく、お互いと、また世界中の教会と、そして神が造られたすべてのものとの、より一層親しい一致へと引き入れられるかを強調する。総裁主教マイケル・カリー (Michael Curry) が要約しているように、「主流派アングリカンは、聖餐が共同体の中で祝われることを強調してきた。」
これは、聖餐が、第一義的には、信仰者個人のためのものではないことを示唆している(もちろんそのためでもあるが)。この伝統はまた、どのような形態の集まりでも聖餐としての基準を満たすという考えを否定する(主宰者としての司祭が要求されるというのは、この理由の一つである)。ある種の集まりに対するこの強調点は、パウロが、共同体の他の人々の必要を顧みずにキリストの体と血を食すなら、それは「ふさわしくないままで」食べることを表していると論じている第一コリントにも見られる(私が最近述べたように)。なぜなら、それは、ある人々には与りやすく、他の人々には与りにくいような仕方で(聖餐)を祝うことによって、キリストの体の中に「分断」をもたらすからである。
私の見解では、ここまでの考察は、以下の理由によって、仮想聖餐の実践を退ける。
アングリカンの伝統は一貫して、神は聖霊によって、いかなる人間の状況にあっても、共におることができると教えてきた。また、健康危機によって聖餐式に参加することができない者にも、「霊的陪餐」による神との交わりがあると教えてきた。
ソーシャルメディアとオンラインのビデオ会議は、物理的孤立の時にも人々の交流を可能にし、様々な助けとなってくれる。けれども、このような形態の「共同体」は、物理的空間における人々の公的集まりとは異なる。これは、私たちがどのように聖餐を理解し、実践するかということについて、並々ならぬ影響を及ぼす。もし、聖餐は、十字架上で死なれたキリストの犠牲に参加者を結びつけるだけではなく、イエスが社会的に捨てられた者たちと罪人たちと共に分かち合った食卓の交わりにも結びつけるのだということを思い起こすなら、仮想聖餐の重大な限界が見えてこよう。イエスにとって、Skype でサマリアの女とおしゃべりをすることと、井戸で直接彼女と会い、社会的境界線を侵すことと(ヨハネ 4:4-26)は、まったく別のことであっただろう。同様に、イエスの弟子たちは、ザアカイがイエスの facebook 友だちだったとしたら、それを奇妙なことだと思ったかもしれないが、イエスがこの徴税人の家で彼と共に食事することに同意したときに伝達されたメッセージを、彼らが誤解することはあり得ないだろう(ルカ 19:1-10)。仮想聖餐は、対面の集会で行われる場合よりも容易に、聖餐を祝うことのこうした重大な次元を矮小化してしまう。
聖書と伝統は、聖餐を、本質的に共同体的なものとして表している。それはただ受動的に見る何かではなく、集まった者たちの積極的関与を要求する(だからこそ、ほとんどの教会は、テレビで典礼を見ることによる陪餐を認めないのである)。更に、パウロが強調しているように、誰がそこに参加できるかということを巡って、参加者の間に分断があってはならない(例えば、貧しい人々や社会で周辺化された人々のように、安定したインターネット接続環境がない者を除外すること)。
総括すると、これらの考察は、教会が仮想聖餐の実践を容認するための不十分な根拠しかないということを示唆している。リスクが利益を遥かに凌ぐ。聖餐式の停止が個々のクリスチャンを損なうことも、教会の本質を損なうこともない。神は私たちのただ中に留まり、働いておられる。しかし、仮想聖餐を採用することは、聖餐の身体的性格を損なうという危険を犯すことである。そのようなやり方には、インターネットの接続環境が整っている者とそうでない者との間に、更に、Zoomで参加の招待を受ける者たちと、招待されない見知らぬ人々や隣人たちたちとの間に、分断を固定化する大きな可能性がある。
自分に近づくことを阻止した弟子たちをイエスが叱った(「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。マタイ 19:14)ことを心に留めつつ、心配する弟子たちに対するキリストの助言にも触れよう。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと… 思い悩むな。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ 6:25-26)。2番目の箇所が、COVID-19のパンデミックの時に、聖餐の持ち方に関する教会の識別を導くべきである。
クリストファー・クレイグ・ブリテン (Christopher Craig Brittain) はトロント大学トリニティー・カレッジ神学部長、マーガレット・E・フレック (Margaret E. Fleck) 講座座長。