サムエル記下 7:4, 8-16; ローマ16:25-27; ルカ1:26-38
クリスマス・シーズンになりますと、普段はキリスト教的なものを社会の表から徹底的に隠しておこうとする日本も、いわゆるクリスマスらしい雰囲気に包まれます。街はイルミネーションに輝き、巨大なクリスマスツリーが現れ、デパートのショーウィンドウが華やかに飾られます。
クリスチャン人口が0.5%にも満たない戦後間も無ない日本で、クリスマスが「祝われる」ようになったのは、クリスマスのイルミネーションやパーティーに象徴される物質的豊かさへの憧れからでした。しかし、いわゆる世間一般が抱く、華やかさ、きらびやかさ、豊かさ、そしてロマンティックといったクリスマスにまつわるイメージは、本当のクリスマス、ナザレのイエスの誕生の現実と、大いにかけ離れています。
ナザレのイエスの母となったマリアは、恐らく、今日これから洗礼を受けるKちゃんと同じくらいの歳の女性でした。
彼女にはヨセフという、いいなずけの男性がいました。しかし彼女は、結婚前に、誰の子かわからない子を身篭りました。これは「ロマンチック」どころの騒ぎではありません。これはスキャンダルです。そして、クリスマスの舞台となった時代と場所に少し目を向ければ、このスキャンダルの深刻さが、少し想像できると思います。
結婚前の女性が、誰の子かわからない子を身篭ったなら、それは結婚が破談にるだけでは済みませんでした。それはほとんど死を意味しました。なぜなら、旧約聖書の掟は、婚約者と別の男性と関係をもった女性を、石で打ち殺すようにと命じているからです。
さらに、婚姻関係の外で生まれてきた不貞の子は、イスラエルの民から追放されなくてはならないとも命じられていました。不貞の子を民の間から断つということは、その子どもは獣に食われるか、餓え死にするかに任せられたということです。
これはナザレのイエスとその母マリアにとって、何を意味するでしょうか?それは、この親子は、彼らを取り巻く社会、彼らが所属するコミュニティーの中で、「生きに値しない存在」と見なされていたということです。
ナザレのイエス、その母マリアは、「素性の怪しい連中」として、もっとも蔑まれる人々でした。このことは、38節の「わたしは主のはしためです」という言葉にも現れています。「はしため」と訳されているのは、「女奴隷」を意味する ‘δούλη’ という言葉です。これは新約聖書全体の中で、たった3回、しかもルカの福音書でしか用いられていない言葉です。
「女奴隷マリア」。これは単に、マリアの謙遜さを表す言葉ではないはずです。マリアは人々から軽蔑され、ののしられ、はずかしめられ、苦しめられ、貧困に喘ぐ女性でした。
イエスの母マリアには、輝かしさも、きらびやかさもありません。彼女は人々が羨むものも、人々から敬意を向けられるようなものも、何一つ持ち合わせてはいませんでした。逆立ちしても、「祝福された者」などとは到底呼べない「女奴隷マリア」。「身分の低いマリア」。
このマリアを、神は人類の救い主の母として引き上げました。
神の大いなる救いの業は、「闇の中にある人間」に向けられています。そして、神の救いの業を通して示される、神の憐みと愛の最初の対象として選ばれたのは、最も暗い闇の中に置かれた「女奴隷マリア」でした。
現在、世界中に、この日本にも、「生きに値しない存在」であるかのように扱われ、蔑まれ、見捨てられている多くの女性たちがいます。
新型コロナウィルスのパンデミックが長期化に伴い、今年の7月以降、自殺者の数が前年比で増加に転じました。7月に2.6%、8月に17.8%、9月に10%と、大きく増加を続け、10月には39.3%という驚異的な数字を記録します。昨年の同じ時期の1.4倍の人たちが、自ら命を絶っているのです。
女性の置かれている状況はさらに深刻です。女性の自殺は8月にすでに、昨年比で42%も増加し、10月には82.6%、昨年の同じ時期の1.8倍もの女性が命を絶っています。さらに40代の女性は、昨年の2.3倍もの人が死を選ばざるをえなくなっています。
なぜこのようなことが起こっているのでしょうか?新型コロナのパンデミック発生後、多くの人々が職を失いました。そして失職した人の約7割を女性が占めています。
4月以降に行動制限が始まって以降、親から性的暴行を受けている、夫からのDVで殺されるかもしれない、子どもを殺してしまうかもしれないといった相談が多く寄せられるようになりました。学校や職場や友人の家といった「逃げ場」が無くなってしまったためです。
『一般社団法人つくろい東京ファンド』のボランティア・スタッフで、支援を受けて路上生活からアパート暮らしになった人たちの居場所と就労の場として立ち上げられた「カフェ潮の路」のコーディネイターも務めている、小林美穂子(こばやしみほこ)さんという方がいます。彼女が、こんなことを書いています。
「コロナ禍の東京で出会った二十歳そこそこの若い女性たちが「もう死ぬしかないと思った」「久しぶりにシャワーを浴びたい。髪を洗いたい」「甘いジュースなんて久し振り」「駅前のベンチで荷物を抱きしめながらふた晩過ごした」などと話す。」「ネットカフェのパソコンで、腎臓を売るルートを検索していた若い女性もいる。毛羽立ち茶色く汚れたマスクをつけて、「生活保護は受けたくない」と歌舞伎町に消えて行った若い女性もいる。」
「これが、私がコロナ禍の8か月間に見てきた若い女性たちのリアルだ。こんなに若い人たちをそこまで追い詰め、放置している社会や国に怒りを覚えるとともに、頑張ればある程度は報われる時代を生き、現状を作ってきてしまった一人として後ろめたさを感じ続けている。」「女性は男性よりも給与が少ないだけでなく、年金も少ない。単身だったり、夫に先立たれたりしていたら、その後の生活維持は困難になる。だから定年はとうに超えた年齢層の女性たちが働き続けているのをあちこちで目にする。」
「底冷えする真冬の道路工事現場で80過ぎと思しき女性警備員が小さい身体にダブついたユニフォームを着て、白い息を吐きながら交通整理をしているのを見かけたりすると、私は何だか無性に悲しくなってしまい、うつむいて足早に通り過ぎる。」「若ければ稼げるかといえば、そうでもない。コロナで失職した女性が生きていく術として風俗を選んだ。その女性がNHKのテレビカメラの前で申告した日給は5,000円。」
新型コロナウィルスに感染して命を落とす数よりも、コロナ禍が炙り出した、日本の深い闇の中で絶望し、自ら命を断つ者の数の方が多い。これがこの国のリアルです。
あたかも存在しないかのように置き去りにされ、社会から忘れられ、貧困に喘ぐ女性たちを死へと追いやる深い闇の中から、神様はKちゃんを呼ばれました。それは、Kちゃんを通して、絶望の闇の中にいる人たちに希望の光を灯し、生存そのものを脅かされている、イエスの母マリアのような女性たちを引き上げるためです。
Kちゃんは今日、神の家族に加えられます。Kちゃんのお母さんとなるMさんもPさんも、お父さんとなるJさんも、そして私たちみんな、Kちゃんと共に旅を続け、Kちゃんが倒れそうになったとき支えます。
私たちは皆、神の家族に支えられながら、与えられた命を、体を、能力を、教育を、主であるキリストに仕えるために、闇の中で死を考える人々に希望の光を示すために用いるよう、神様に呼ばれました。
Kちゃんの洗礼式という大きな祝福と喜びの中で、このことを今一度確認しましょう。




