洗礼式 降臨節第4主日

2020年12月24日(木)
降誕日聖餐式 (I)
マタイ1:18-25

皆さん、クリスマスおめでとうございます。

クリスマス・イヴと降誕日の聖餐式で読まれる聖書箇所は毎年同じです。今日のマタイ福音書1章18節から25節も、毎年必ず読まれる箇所で、ここが朗読されるだけで、「一気にクリスマスの雰囲気を感じる」という方も多いことでしょう。

マタイ福音書は、イエス・キリストを通して、あるいはイエス・キリストによって、神ご自身が人間の間に降って来られ、私たちと共に「生きる」ことを選んだと語ります。しかも、神が「人の間に降って来て、人と共に住まわれる」、その仕方は、人間的な期待や予想と全く違うということをマタイ福音書は語っています。

ナザレのイエスの母マリアは、ヨセフという貧しい大工と婚約していました。ところが二人が結婚する前に、マリアは誰の子かわからない子を身ごもります。

マリアが妊娠している。この知らせに、ヨセフは苦悩したはずです。「まともなユダヤ人男性」にとって、どこの誰の子どもかわからない子を宿した女性と結婚するなどということは、まったくありえないことです。

旧約聖書の律法は、婚約者と別の男性と関係をもった女性を訴え、石で打ち殺すことを命じています。ですから本来、ヨセフはマリアをユダヤ人の長老たちの前に突き出し、石で打ち殺されるようにしなくてはならなかったのです。

しかしヨセフは、それだけはどうにかして避けたいと思っていました。

マリアが石打の刑を免れる唯一の道は、ヨセフが理由を何も説明せずに、マリアを離縁することです。そしてヨセフは、そうしようとしました。これは人間的に言えば、マリアがヨセフから期待しうる、最も憐み深い行動でした。

しかし、たとえヨセフがひっそりとマリアを離縁したとしても、その後にマリアとその胎内の子を待ち受ける運命は、過酷なものであったに違いありません。

ヨセフがマリアを離縁したとするなら、マリアは夜逃げをし、誰も彼女を知らない場所に身を隠し、そこで出産し、ゼロから生活を建て直さなくてはなりませんでした。しかし、誰の子かわからぬ子どもを、自分のことを誰も知らないところで、ひっそりと生むことができたとしても、彼女には生きる術がありません。

マリア一人であれば、女奴隷として自分を売ることができたかもしれません。しかし乳飲み子を抱えた女を奴隷として「買う」物好きはまずいません。ですから、たとえヨセフが秘密裏にマリアを離縁し、石打の刑から逃れさせたとしても、マリアとその胎の子が生きられる道は無かったのです。

胎内の子が一体誰の子なのかは、誰にもわかりませんでした。もしかしたら、マリアだけは知っていたかもしれません。しかしヨセフは、マリアが身ごもった子が誰の子なのか知りませんでした。

そのような状況の中で、ヨセフは、「まともなユダヤ人男性」なら絶対にしない決断をしました。マリアを妻として迎え、マリアの内に宿る、誰の子かわからない子を受け入れ、二人を守り、養うことにしたのです。

誰の子かわからぬ子を宿すマリア。そのマリアを迎えるヨセフ。

皆さん、考えてみてください。これはどう考えても、私たちが考える「幸せなカップル」のイメージにも、幸せな家族の理想像にも合いません。この世的に言えば、もっともスキャンダラスで、悲劇的で、そして不幸なカップルと家族です。

マリアの胎に宿る子は、まさに誰にも「望まれない子ども」です。しかしヨセフは、誰にも望まれない子を宿したマリアを、苦悩しながら、悲しみながら、受け入れる決断をしたのです。マリアを受け入れるヨセフ無しに、マリアはイエスを生むことはできなかったはず。あるいは、たとえイエスが生まれていたとしても、生き残ることはできなかったはずです。

そして神は、このヨセフの決断を喜び、祝福されました。「まともなユダヤ人男性」にとっては、神に逆らい、神の呪いを招くとしか思えないようなヨセフの決断を、神は祝福されました。さらに神は、「誰にも望まれなかった命」、ナザレのイエスを通して、闇の中に生きる人たちのところに降って来られ、彼らと共におられることを選ばれたのです。

誰にも望まれない子を宿したマリアを妻として迎え、そして彼女の胎に宿る子を受け入れ、養い育てたヨセフ。


私はここに、新型コロナウィルスのパンデミックに襲われた世界の中で、神が教会に与えられた使命を見ます。それは、「望まれない子ども」を、この世が見捨てた子どもたちを、「聖霊によって」与えられた命として、神の愛の中に生まれた者として、受け止め、育むことです。

コロナ禍は、以前から暗闇の中にいた貧しい親たちを、さらに深い闇の中へと追いやりました。女手一つで子どもを育てる母親たちの窮状は、深刻になり続けています。

親の窮状は、そのまま子どもたちの生存の危機に直結します。もう子どもを育てられないという絶望感が、貧しい親たちの間で広がっています。そして多くの子供たちが、性的虐待や暴力に晒されています。

クリスマスの物語は闇を照らす光の物語です。しかしイエス・キリストは、ただ単に光として闇を照らしたというだけではありません。

マリアも、ヨセフも、そしてナザレのイエスも、闇の中を生きました。聖家族は、闇の現実を誰よりも知っていました。そして神は、聖家族を通して、キリスト・イエスを通して、私たち人間が置かれている暗闇を、ご自分のものとされました。

神は、この夕べ洗礼の祝福に与るJさんを、そして私たちを暗闇の中から呼び出されました。

それは、この世が「望まれない子ども」とする命を、「聖霊によって」、神の愛によって生まれた命として喜び、受け入れ、育むためです。

私たちはこの後、洗礼を通して、Jさんを神の家族として迎え入れます。その時、神が私たちを呼んでくださり、神に愛されたものとして、神の家族の中へと迎え入れてくださったことを再確認いたしましょう。

そして、親に捨てられ、世に捨てられ、孤独の中で悩み苦しむ人々の前に希望の光を輝かせ、神の家族へと招くために私たちを遣わしてくださることを喜び、感謝を献げましょう。