


通常、教会の暦は日が暮れると日が変わって翌日となりますが、イースター・シーズンとクリスマス・シーズンには、それが変更になります。
12月24日、今日のLessons and Carolsまではクリスマス・イヴ、主の降誕の前夜として扱い、この降誕日の最初の聖餐式をもって日にちが変わったことになります。ですから、このLessons and Carolsの礼拝はまだ、イヴの礼拝で、クリスマスの礼拝ではないことになっています。
私がマーガレット教会で勤務を始めた2017年から、12月24日のクリスマス・イヴに9 Lessons and Carolsの礼拝を始めました。しかし今年は今日に至るまでまでコロナ禍が続き、クリスマスの礼拝を共に献げることができるかどうかすら危ぶまれました。
そのような中でもマーガレット教会では、できる限りのコロナ予防対策を敷いて、さらには抗原検査キットなどのリソースもフルに活用して、クリスマスの礼拝を行うことにいたしました。それは、社会全体が大きな闇に包まれている時だからこそ、教会は希望の光を輝かせる使命を果たさなくてはならないとの思いからです。
しかし新型コロナウィルスの脅威と隣り合わせの状況の中で、この使命を果たさねばならない以上、これまでと同じようにクリスマスの礼拝を行うというわけにはいきません。会衆の皆さまには、礼拝中もマスクを着用していただいた上で、聖書朗読箇所は9つから7つに減らし、一緒に歌う聖歌は大幅に減らして4曲とし、時間も短縮し、聖堂の収容人数を60人に限定しました。
大きな制約の中で執り行われるこのイヴの礼拝は、例年の大礼拝とは大きく雰囲気も違って、寂しさを感じる方もあるかもしれません。しかし私たちは何よりも、このような困難の中にあっても、共に祈り、希望の光に、イエス・キリストに目を向ける時が与えられていることを感謝したいと思います。
今日、このところに共に集いたいと心から願いながら、それができない多くの方々がいることも、どうぞ心に留めてください。
そして、このイヴに、改めて皆さんと共に確認したいことは、クリスマスは、闇の中に生きる人々を照らすために降ってきた、希望の光の物語だということです。希望の光が希望の光であると気づくためには、その光が照らす、深い闇とも向き合わなくてはなりません。
私たちは普段、世の闇に気づかないふりをしながら歩んでいます。しかし世界規模でのコロナ禍が、世の闇を暴露しました。もはや誰も目を逸らすことも、知らないふりをすることもできない深い闇が立ち現れました。コロナ禍によって「生存」が脅かされるようになった人々の多くは、それ以前から「世の闇」の中に置かれ、苦しめられていた人々です。
ネットカフェで寝泊まりしていた人々が居場所を失い、非正規雇用の人々が真っ先に職を失いました。職を失った親の子どもたちは学校を退学せざるをえなくなり、生活が立ち行かなくなって、自分の臓器を売ることを本気で考えている人たちもます。自殺者は急増し、女性の自殺率は昨年の1.8倍にも達しました。
多くの人々を貧しくし、道具として利用することで、一部の者が富を独占する経済的現実。貧しい者たちが更に貧しくなるとしても、容赦無く税金を取り立て、自助で生活再建をと迫る抑圧的政治。政治家や官僚の巨大な悪には目をつぶりながら、公的支援を求める貧しい人々を、「税金泥棒」と罵倒する冷酷な社会。
これは日本のリアルであり、この国の中心に巣食う闇です。しかしこの闇は、ナザレのイエスが降って来られた闇でもあります。
クリスマスの物語は、ロマンチックな物語ではありません。それは暗闇の中で悶え苦しむ人々に贈られた、神からの希望のメッセージです。
イエス様の誕生の場面に居合わせる羊飼いによって表されているのは、蔑まれ、社会から排斥され、誰もその存在に目もくれないような人々です。マリアとヨセフと幼子イエス。この聖家族は、幸せな家族などではありません。聖家族は破綻した家族です。
イエスがお生まれになった時代に、イスラエル社会の中でマリアが置かれている現実。それは、彼女は律法の命令に従って、姦淫の女として石で打ち殺されるべき存在だったということです。
マリアは、イスラエル社会に存在することを許されない女性でした。イスラエル社会の価値観に基づいて、ユダヤ人の常識に従って見れば、マリアとヨセフの結婚は、結婚生活が始まる前に、すでに破綻していました。そして、この怪しげな夫婦の間に生まれたイエスについても、つねに怪しげな噂がついて回ったはずです。
ナザレのイエスは闇の中に生まれ、そして闇の中を生きました。彼は私たちが通る人生の深い闇を知っておられます。さらに、ナザレのイエスは、人間の貪欲をエンジンとする経済制度の闇を知っています。
彼は、貧しい者を更に貧しくし、苦しめるこの世の政治の闇を知っています。イエスは、人生が思うようにいかない悲しみを知っています。彼は、人生の破綻を知っています。深い闇の中に生まれ、深い闇を生きられたイエス。このイエスを、神は闇の中に輝く希望の光とされたのです。
神は暗闇の中に置かれた人々を、イエス・キリストという光によって神の家族の中に招き入れ、新しい命、喜びに溢れた命を与えようとしておられます。
私たちは今日、まことの光、希望の光を携えて、闇の中に入っていくために、ここに集められました。自分の中に光を持たずに闇の中に入って行けば、私たちは闇に飲み込まれます。しかし、小さな希望の光を携えて闇の中に乗り込むなら、その小さな光が、絶望の闇の中にある人を生かします。
世を照らすまことの光、イエス・キリストを遣わされた神は、この光を受けた者たちをも、闇の中にお遣わしになります。
御子イエス・キリストを闇の中に遣わされた神が、皆さんを闇の中に輝く光として遣わしてくださいますように。