聖霊降臨後第8主日 説教

2021年7月18日(日)

特定11 マルコ 6:30-44

今朝の福音書朗読は、先週の福音書のエピソードの「続き」と言える箇所です。先週は、イエス様が12人の弟子たちを二人一組にして、悪霊に対する権能を授けて送り出す箇所でした。

今日の箇所は、弟子たちがイエス様のもとに戻ってきて、宣教旅行の結果報告をしている場面です。

多くの人々が弟子たちの言葉に耳を傾け、彼らはイエス様ご自身が行っていた業を力強く行いました。

多くの悪霊を追い出し、多くの病める人を癒したのです。

12人の弟子たちの働きが大成功を収めたことは、今朝読まれた箇所からもわかります。

イエス様は弟子たちを休ませようと、こっそりと舟に乗って人気のないところに向かいました。

ところが、弟子たちが教えた神の国の福音を聞き、彼らが悪霊を追い出して病を癒すのを見た人々の多くが、後を追ってやって来ました。

そしてイエス様と弟子たちが舟に乗って出ていくのを目撃したのです。

集まった群衆は、湖の岸に沿って走り、先回りして、弟子たちとイエス様を待ち伏せしていました。

イエス様はこの群衆に心を動かされます。それは、彼らが羊飼いを持たぬ羊のようだったからです。

「羊飼いのいない羊なんて、誰にもうるさいこといわれないし、自由気ままで素晴らしいじゃないか!」、そう思う人もいないことはないかもしれません。

しかし、聖書の中で、「羊飼いのいない羊」というときには、「自由気ままで素晴らしい」というニュアンスはまったくありません。

羊飼いがいない羊。それが何を意味しているのかを教えてくれる箇所が、旧約聖書にあります。エゼキエル書の34章です。そこにはこうあります。

「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。3 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。」

ここに記されているのは、指導者、あるいは支配者によって搾り取られ、貧しさと病の中に捨て置かれ、打ちひしがれ、希望のない人々の姿です。

そして、これが、イエス様の心を揺さぶった、「羊飼いのいない羊のような群衆」の現実です。

イエス様と弟子たちを追いかけて来た群衆は、政治家や国によって搾取され、貧しさと病の中で、生きることすらままならない人たちなのです。

そして、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって、満腹するまで食べさせた大群衆は、このような人たちです。

福音書という書物はどれも、イエス様の伝記ではありません。

福音書に書かれているイエス様の言葉は、福音書の背後にある教会の言葉です。

そこに書かれているイエス様の言葉は、主であり、救い主であるイエス・キリストに対する教会の信仰告白であると共に、イエス様から与えられた使命に関する、教会の自己理解でもあります。

つまり、五千人の男とそれを超える女性と子どもたちを、5つのパンと2匹の魚で養われたイエス様の奇跡の業は、神の国とは何か、そして神の国を指し示すという使命を与えられた教会が、誰に目を留め、何を行うべきかを教えているのです。

 まず、五千人の給食の物語は、いえ、五千人の給食の物語も、神の国に最初に招かれているのは、この世の指導者によって、国によって、政治家によって、構造的な搾取と貧しさ、そして絶望の中に捨て置かれ、生存の危機に晒された人々であることを教えています。

イエス様と弟子たち追いかけて来た群衆は、イエス様と弟子たちが語った神の国の福音と、その到来を指し示す業の中に希望を見出しました。

教会が第一に心に留め、招き、仕えるべき人々は、イエス様が今日の物語の中で養われた人々です。

それは、この世の支配者が、国が、政治家が置き去りにし、貧困の中に固定化している人々です。

裏を返せば、教会がこの世の持てる者たち、富める者たちのためにするべきことはたった一つしかありません。それは悔い改めを迫ることです。

この世の富を、自分のために蓄え、自分のためにのみ用いようとすることは、滅びの道だ。そう警告し、貧しい人々と共に生きるために分かち合うようにと勧めることです。

貧困、病、絶望の中に置かれた人々に希望を与える言葉を語り、生きる望みを抱くことができるような働きをすること。

それこそ、主イエス・キリストが教会にら与えられた使命です。

教会がいつの時代にも、この世の支配者が、国の政治家が見てみないふりをし、置き去りにする人々を招き、神の家族の中で養い生かすという使命を担っている以上、キリスト教は決して、ノンポリではあり得ません。

私たちには、この世の政治家たちの振る舞いを、この世の統治体制を、神の国の福音に基づいて批判的に判断するスキルを身につけることが必要です。

今、この国の政府は、オリンピックのために大部分の国民を置き去りにし、犠牲にしています。

一般市民はこの期に及んで、発熱してもすぐにPCR検査を受けることもできず、新型コロナに感染しても、すぐに入院することもできません。

速やかに接種を進めろと国が命じたワクチンは、供給量がまったく足らず、3千の団体の職域接種は始まってすらおらず、地方自治体の接種会場ですら、予約の停止やキャンセルを迫られる事態になっています。

しかしオリンピック関係者には毎日検査が行われ、抗原検査で陽性になれば、直ちにPCRで確定検査が行われます。

また、感染が判明した場合、オリンピック関係者は優先的に病院に収容されます。

7万人のボランディアを含むオリンピック関係者のためには、優先的にワクチンが供給されています。

オリンピック利権のために、東京都には再び緊急事態宣言が出され、子どもたちからは夏休みが奪われ、飲食店には改めて、酒類の提供停止が命じられました。

政府や都が、国の要請に逆らって酒を提供する飲食店に対する酒類の納入停止や、融資の停止といった脅迫を行っている最中で、与党議員は派閥の政治資金パーティーを開き、6人がコロナに感染しました。

そして、この政治家たちは、陽性反応が出ても重症化するまで自宅待機を強いられている一般市民をよそに、すぐに病院に入院しています。

もし私たちが、オリンピックのために大部分の国民を置き去りにし、犠牲にしているこのような政府の姿に、羊を養わない羊飼いを見ることができないとするなら、私たちはイエス・キリストが教えられた神の国の福音から、何も学んでいないと言わねばならないでしょう。

今、この国の政治的文脈の中で、羊飼いのいない羊のような人々とは、この国の政府が、1年4ヶ月以上にわたって痛めつけ、犠牲にしてきた、経済的に最も弱い人々です。

 教会が「希望の言葉」を語るべき人々は、この人たちです。この人々こそ、教会が、共同体の中に招き、迎えるべき人たちです。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

今朝、改めて、この主の言葉に耳を傾けましょう。