聖霊降臨後第10主日 説教

2021年8月1日(日)特定13

出エジプト 16:2-4, 9-15; エフェソ 4:17-25; ヨハネ 6:24-35

今朝の福音書朗読のヨハネ福音書6章24節から35節は、6章22節から6章の最後、71節まで続く大きなエピソードの最初の四分の一です。

今年はB年でマルコ福音書を中心に読む年ですが、今日、特定13から、3週間先の特定16の日曜日までは、ヨハネ福音書の6章の24節以下を、4回に分けて読むようになっています。

「文脈を無視してはいけない」というのが、現代のテキスト解釈の大原則ですから、今日の福音書朗読箇所について話すためには、22節から71節までの全体を視野に入れておく必要があります。

さらに、ヨハネ福音書6章22節から71節までのエピソードと、4章1節から42節までの、いわゆる「サマリアの女」のエピソードとの間には、興味深い並行関係があります。

4章1節から42節までの「サマリアの女」のエピソードの中心テーマは、「飲んでもまた乾く水」と「永遠の命に至る水」です。

それに対して、6章22節から71節にわたる大きなエピソードを貫いているトピックは、「食べても死んでしまうパン」と、「永遠の命を与える天からのパン」です。

そして「永遠の命に至る水」と、「永遠の命を与える天からのパン」はどちらも、イエス・キリストのことを指し示しています。

ところが、ほとんど同じことを異なる比喩を用いて語っている二つのエピソードには、決定的な、そして驚くべき違いがあります。

イエス様が「永遠の命に至る水」について話をすると、サマリアの女性は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とイエス様に願います。そして彼女はさらにイエス様の言葉を聞いて、イエス様を信じて受け入れます。さらに、彼女を通してイエス様と出会ったサマリアの村の人々もイエス様を信じ、受け入れたました。

イエス様はユダヤ人です。イエス様の時代のユダヤ人は、サマリアの人々は穢れていて、神に見捨てられた人々と見做し、嫌悪していました。サマリアの人々も、自分たちこそが神を正しく礼拝していると思っていましたし、ユダヤ人を徹底的に嫌っていました。

そのサマリアの人々が、イエス様を永遠の命の与え主として信じ受け入れたというのは、私たちには想像もつかないほど、驚くべき出来事です。

他方、今朝の福音書朗読箇所に登場する、イエス様を追いかけてやって来た群衆は、イエス様が「羊飼いのいない羊のよう」だと言って憐れみ、5つのパンと二匹の魚で養った人々です。

この群衆に向かって、イエス様が「永遠の命に至る食べ物」について話をすると、この人々も「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエス様に求めます。

ところが、イエス様が5つのパンと二匹の魚で5千人の男たちと、その倍はいたであろう女性たちと子どもたちを養うという奇跡を見た群衆は、イエス様の語ることをまったく理解できません。むしろ群衆は、自分たちが信じるために、何かしるしを行うようにとイエス様に求めます。

この群衆は、どれほど偉大なしるしを見ても、「しるし」を理解することができないのです。

なぜでしょうか?それはきっと、この群衆の関心が、死すべき体を養う、無くなってしまう食物にしか向いていないからでしょう。

もちろん、私たちの「この体」を養う「パン」は重要です。私たちの「この命」が宿る「この体」も、もちろん重要です。

しかも、パウロが朽ちる体で蒔かれて、朽ちることのない復活の体に甦ると言う通り、死すべき命と、永遠の命との間には、連続と断絶の両方があります。

しかし、死すべき体を養う、腐敗して無くなってしまう食物だけに、私たちの視線が固定されている間、私たちは「人間として生きる命」の重要な何かを忘却し、失います。この世の命を養う、肉の糧にしか関心のない人間は、野獣的であり、自己保存にしか関心を向けません。 

逆説的なことに、「自分の」死すべき体を養う肉の糧にのみとらわれる人間は、他の人々の肉の命が危機に晒されても、気に留めません。

新約聖書の中で語られる、永遠の命は、まことの命とも言われます。まことの命。それは満ち足りた命です。充実した命と言ってもいいでしょう。永遠の命に繋がるまことの命は、死後に始まる命ではありません。それは、この世で始まり、この世で生きる命でもあります。

しかし、まことの命、充実した命を生き始めるためには、私たちの視点が動かなくてはなりません。

自己保存のために、自分の必要とする肉の糧があるだけでは、人間として、充実した命を生きることができないということに、気づく必要がありません。

私たちが、いつ、どのようにして、肉の命の欠乏気づき、まことの命、永遠の命に至る充実した命に対して目が開かれるのか、それは誰にもわかりません。

あえて言えば、それは神の業です。そして神様は、私たちの思いを超えて働かれます。

先週の日曜日、夕方4時から行われたユース聖餐式の中で、Tさんが洗礼の恵みに与りました。

Tさんは、神奈川県の小田原聖十字教会がやっている幼稚園に通っていて、小学生の間は日曜学校にも通っていました。しかし、小学校を卒業してからは、Tさんの言葉を借りれば、「神の教えをすっかり忘れてしまった」生活をしておられました。

しかし新型コロナウィルスのパンデミックによって、ステイホームを余儀なくされたことで、Tさんの目は開かれ、精神的なこと、霊的なこと、まことの命へと関心が向かうようになりました。

するとTさんは、幼稚園から小学校時代の日曜学校までイエス様と共に過ごした空間と、その時間が、いかに幸福だったかということに気づき、永遠の命のパンであるイエス・キリストを信じ、受け入れました。 

まことの命、充実した命は、互いに与え、互いに仕え合う交わりの中で生きられる命です。このまことの命は、イエス・キリストの体と血によって養われる共同体の中で生きられます。

そして、洗礼を受けたTさんも、私たちも、天から降って来たまことのパン、イエス・キリストによって養われることによって、すでに、永遠の命に至る充実した命を生き始めています。

私たちがまことの命を生きるために、神様に先に呼ばれたのは、イエス・キリストの体と血によって養われる共同体の中に人々を招くためです。今、このコミュニティーの外にいる人たちも共に、永遠の命に至る充実した命を生きるようになるためです。

そのために、すでにイエス・キリストの体と血によって養われ始めた私たちを、主が用いてくださいますように。