2021.08.22(日)特定16
ヨハネ6:60-69
今朝の福音書朗読は、6章の22節から始まった長い長いエピソードの締めくくりに当たります。
初めてこのエピソードを読む人にとって、最後の展開は、まったく予想外で、「どうしてこんなことになっちゃうのだろう」と困惑を感じさせるようなものかもしれません。
「命のパン」を中心に展開するこの長いエピソードは、いわゆる五千人の給食の奇跡を経験し、イエス様にお腹いっぱいになるまでパンを食べさせてもらった人たちが、イエス様のことを追いかけて来て始まりました。
イエス様の話を聞くために集まり、空腹になった群衆を、イエス様は憐れみ、彼らを5つのパンと二匹の魚をもって養われました。
その群衆が再びイエス様を追いかけて来たわけです。
一見、イエス様と群衆との関係は、相思相愛と言いましょうか、良好な関係に思えます。
ところが長いエピソードの締めくくりに当たる今朝の福音書朗読の冒頭で、イエス様の弟子たちの多くがこう言っています。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
ここで驚くのは、こう言っているのが一部の群衆ではないということです。
すでにイエス様の弟子となった人々が、「こんなひどい話、聞いてられるか!」と言っているのです。
この結果、十二使徒とごく少数の弟子たちを残して、多くの弟子たちはイエス様のもとを去り、弟子として歩むことをやめました。
多くの弟子たちがイエス様を捨てることになった「ひどい話」というのは、「わたしはまことの命のパンである」というイエス様の宣言でした。
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)
なぜこれが、5つのパンと二匹の魚で養ってもらった人たちから、「ひどい話」だと判断されることになったのでしょうか。
群衆がイエス様にしるしを求めた時、先祖たちがマンナで養われたことを引き合いに出しました。
彼らは、イスラエルの歴史上、最も偉大な指導者であるモーセが、エジプトから脱出してきたイスラエルの民に、天からのパンであるマンナを与えたと信じていました。
更に、マンナは、モーセが神から遣わされた者である証拠だと思われていました。
ところがイエス様は、マンナを与えたのはモーセではなく自分の父だと言って、モーセがマンナを与えたという彼らの理解を否定します。
更にイエス様は、マンナを食べたイスラエルの先祖も皆死んだのであって、天からのパンと言われるマンナも救いの役には立たないと断言します。
その上でイエス様は、天から降ってきて世に命を与えるパンを、父がお与えになると宣言します。
これを聞いた、人々は「「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めます。
しかし彼らは、イエス様が語る命のパンを、食べても食べても無くならないパンとしか思っていませんでした。
だからこそ、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」というイエス様の言葉は、聞くに耐えないひどい話でしかありませんでした。
つまり、イエス様の話が「命の言葉」ではなく、「ひどい話」にしか聞こえないのは、イエス様にしるしを求めた人々が、もう一度パン食べさせてもらうことしか求めていなかったからです。
人はいつの時代にも、自分が欲しいものを与えてくれる神を求めるのです。
イエス様が、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言う時、体を生かすための食物はどうでもいいと言っているのではありません。
もしそうであれば、イエス様は五つのパンと二匹の魚で群衆を養うなどということはしないはずです。
あるいはイエス様は、命は体がなくても霊だけで生き延びられるのだと言っているわけでもありません。
もしそうであれば、イエス様が永遠の命を与えるために肉を取ることも無意味であり、復活の体に甦えることも無意味です。
ここでイエス様が言っておられるのは、この世が、あるいはこの世にあるものが、永遠の命を与えることはできないという単純な事実です。
永遠の命は、イエス・キリストの父、永遠なる神ご自身しか与えることができません。そして、永遠なる神が、永遠の命の糧としてお与えになったのがイエス・キリストです。
ところで、ヨハネの福音書において、「命のパン」であるキリストを食べるということは、第一義的には、聖餐式に与ることではありません。
6章57節でイエス様は、「57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」と言っています。
「父によって生きる」。
この言葉の意味は、サマリアの女性とイエス様の対話が終わるところで示されています。
イエス様がサマリアの女と話をしておられたとき、十二弟子たちは食べ物を買うために町へ出かけていました(ヨハネ 4:8)。
食料を調達して帰って来た弟子たちは、「ラビ、食事をどうぞ」とイエス様に食事を勧めます(4:31)。
するとイエス様から、思いも寄らない答えが返ってきました。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。」「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」(32, 34)
ここから、命のパンであるイエス・キリストを食べ、このパンによって永遠の命を得るというのは、イエス・キリストの言葉を「命の言葉」として聞き、この言葉を生きることだと分かります。
しかし、ここに、永遠の命に関する最大の謎と神秘が現れます。
どんなに命の言葉が語られても、どんなにイエス・キリストの福音が宣べ伝えられても、それは多くの人にとって「ひどい話」にしか聞こえない。そうヨハネ福音書は言うのです。
人が、この世の与えるもので自分を満たそうと思う限り、命の言葉は「ひどい話」にしか聞こえず、「福音」は良き知らせにもなりません。
お金があっても、財産があっても、美貌があっても、地位があっても、名声があっても、この世の何を持ってしても、決して満たされることのない魂の飢え乾きと霊的な欠乏。
これが私たちの中に感じられときに初めて、命の言葉が命の言葉として聞こえるようになります。
時に私たちは、「イエス様の言葉を聞いて、イエス様を信じて、永遠の命を与えられたことに感謝します!」と祈ったりします。
ところが、「いのちの言葉」が「ひどい話」に聞こえるということは、私たちクリスチャンにも起こります。
実際、「わたしが命のパンである」という言葉を聞いて、多くの弟子たちがイエス様を離れました。ユダはイエス様を裏切りました。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
こう言ったペテロも、実はイエス様が何を語っていたのか、理解してはいませんでした。
永遠の命は、神の言葉であるキリスト・イエスに聴き、この言葉を生きることにあります。
しかし命の言葉は、私たちのうちに魂の飢え乾きがある時にしか、命の言葉になりません。
逆説的なことですが、霊的な欠乏が無ければ、私たちは永遠の命を得ることができません。
命の言葉を命の言葉として聞き、永遠の命を生きるために、聖霊が私たちを、魂の飢え乾きに対して敏感であらせてくださいますように。