


2021年8月29日(日)
マルコ7:1-8, 14-15, 21-23
8月1日の主日から先週、8月22日の日曜日まで、福音書朗読はヨハネ福音書6章の「命のパン」のエピソードから取られていましたが、今日から再びマルコ福音書に戻ります。
今朝の箇所は、イエス様とファリサイ派を中心とするユダヤ人グループが対立する場面です。
ここでイエス様とファリサイ派を中心としたユダヤ人との対立として描かれているのは、実際には、マルコ福音書の背後にある教会と、ファリサイ派を中心とする主流派ユダヤ人との対立です。
つまり教会とファリサイ派の主流派ユダヤ人との対立が、イエス様とファリサイ派と律法学者との対立として描かれているのです。
そして対立の火種となったのは、イエス様の弟子たちの何人かが、「手を洗わずに食事をしていた」ことだと記されています。
イエス様が宣教活動をしていた時代、イスラエル社会の中心にあったのは神殿であり、社会で宗教的にも、政治的にも、もっとも影響力を持っていたのは祭司と神殿当局者、つまりサドカイ派でした。
ファリサイ派は信徒運動であって、政治の中心にはいませんし、神殿を中心とするユダヤ教の中では、支配的な勢力でもありませんでした。
すべての福音書は、イエス様が神殿の権威を否定し、神殿当局者と対立していたことを記しています。神殿当局者はサドカイ派です。
イエス様を十字架にかける上で、より大きな影響力を持っていたのは、ファリサイ派ではなく、ローマ当局と直接に繋がりのあるサドカイ派だったはずです。
それにも関わらず、福音書の中には、イエス様とサドカイ派との対立の場面というのはほとんど無くて、イエス様の最大の敵として現れるのは、文字通り十中八九、ファリサイ派です。
なぜそうなのか。それは福音書という書物が書かれたのは、エルサレム神殿崩壊後であり、エルサレム神殿崩壊後のユダヤ教はファリサイ主義ユダヤ教だからです。
サドカイ派は神殿を力の源泉とする貴族階級ですから、神殿崩壊と共にサドカイ派も消滅しました。
その結果、神殿崩壊後のユダヤ教の内部で、ファリサイ派が指導的立場に着くことになりました。
そして、福音書の背後にある教会、つまり、福音書を書いた人たちが所属している教会は、ファリサイ派を中心とする主流派ユダヤ人と対立しているのです。
この対立が、多くの場合、イエス様とその敵対者としてのユダヤ人という構図で福音書に現れます。
今朝の福音書に、イエス様とファリサイ派と律法学者の対立として描かれているのも、マルコ福音書の背後にある教会とファリサイ派ユダヤ人との対立です。
マルコ福音書の教会は、ユダヤ人と異邦人の混成共同体でした。ユダヤ人クリスチャンの中には、律法に従って聖めの儀式を行って食事をする者たちもいたでしょう。
しかし異邦人のメンバーや、「徴税人、罪人、娼婦」という言葉に代表される、宗教指導者から「汚れた者」とみなされていたユダヤ人メンバーたちは、律法が定める聖めの儀式をまったく無視して生活していました。
そして、ファリサイ派を中心とする主流派のユダヤ人は、キリスト教徒となったユダヤ人を、ユダヤ人の名に値しない者と見なすようになりました。
つまり、ユダヤ人クリスチャンは、徴税人、罪人、娼婦と同じ扱いになったということです。
そして、興味深いことに、教会のユダヤ人メンバーたち自身も、自分たちのことをユダヤ人と呼ばなくなりました。
さて、福音書の教会とファリサイ派ユダヤ教は、一つの源流から流れ出た二つの川です。どちらも同じ神を信じています。
しかし、この二つの宗教の違いは非常に大きく、同じ神が、大きく異なる姿で描かれ、まったく異なる呼びかけをする神として描かれます。
ファリサイ主義は、掟に従い、聖さを追求して、神に祝福された者となることを追い求めます。
旧約聖書続編の第二マカバイ記7章には、セレウコス朝シリアの王、アンティオコス・エピファネスによって、豚の肉を食べることを命じられた高齢の律法学者と、7人の兄弟が、汚れた者を口にすることを拒否して殉教したことが記されています。
ファリサイ主義ユダヤ教にとって、聖さを保つために死をも厭わないこの殉教者たちこそが、信仰の模範です。
ですから、ファリサイ主義のユダヤ教にとって、「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もない」というイエス様の言葉は、絶対に受け入れることができないものです。
しかし、ナザレのイエスは、自分を聖くする者を祝福する神を否定します。イエス・キリストの父なる神は、善人にも悪人にも恵みを注ぐ方として現れます。
そしてナザレのイエスは、徴税人、罪人、娼婦に代表される、汚れた者として排斥された者たちを、神の国の運動員として招き、迎えました。
神の国の運動を引き継ぐ共同体である教会にとって、汚れた者として排除されたユダヤ人と、律法を持たない故に汚れて呪われた者とみなされる異邦人が共に生きる共同体となることは、主に与えられた使命ですが、それはいつの時代にも、とても困難な挑戦です。
教会の使命はいつの時代も変わらず、単純です。神の国を指し示し、軍事力によらない平和を作ることです。
それはアメリカ軍やNATO軍の力によってアフガンに安定をもたらそうとする道では無く、アフガンに水路を引いて人々の命を支えた、中村哲さんの道です。
しかし、神の国を指し示し、軍事力によらない平和を作るためのマニュアルは、どこにもありません。
先日、お会いしたことのない方から、「Forex、 外国為替の取引に手を出すことは罪でしょうか?神様に喜ばれないことでしょうか?」という質問の電話がありました。
色々な教会の牧師に話を聞いてみたところ、「それは罪だ」とか、「神様に喜ばれないことだ」と言われることがあったということです。
私は、「経済には常に光と闇があり、そのことを知っていることは重要だけれども、人を騙して金儲けしようとか、陥れようとか、傷つけるということでない限り、基本的に何をしてもいいと思います。ただ、Forexは破綻のリスクが大きいです」とお答えしました。
私たちは、同じことについて、同じように考える必要はありません。むしろ私は、教会は、できる限り大きな違いを許容できる共同体であることが必要だと思っています。
しかし、律法に従って手を洗って食事をする者と、手を洗わずに食事をする者が、一緒に生きる共同体であり続ける道を見出すことは、それほどたやすいことではありません。
私たちは誰一人、完璧ではありません。また誰一人、悪から完全に自由であることもできません。
私たちの当たり前の日常の生活が、巨大な悪と繋がっていることに気づいていないだけだということだって、いくらでもあります。
だからこそ、今朝も共に、この時、この場所にあって、マーガレット教会が神の国の共同体となり、平和を作る道を見出すことができるように、上よりの知恵を祈り求めましょう。