聖霊降臨後第15主日 説教

2021年9月5日(日)特定18 

マルコ 7:31-37

小学生の3,4年の頃だったと思いますが、夏休みになると、稲城長沼に住んでいた祖母の家に滞在して、毎日のように、自転車で多摩川沿いにある市営プールに通いました。

プールに行くと、1日平均4時間くらいはいたと思います。もちろん普通にクロールとか平泳ぎとかで泳いだりもしますが、当時は、プールのど真ん中の一番深い所に行って、そこで潜るのが大好きでした。

潜って底にたどり着いたら、そこで息を吐き切ります。そうすると体が浮いこなくなります。そこですかさず、腹這いの状態から寝返りを打って、プールの底に仰向けに寝ます。

そうすると、下から水面とその向こうの空を眺めることになるわけですが、それは自分にとって、非常に特別な景色でした。

プールの底からの眺めに、小学生時代の私は、不思議な喜びを感じていました。

しかし、一つ大きな問題がありました。水中に潜ったままグルグル回っていると、当然のことながら、しょっちゅう耳の中に水が入ってきます。

水の中にいるうちは、耳の中の水のことは大して気になりませんが、30分ごとにプールの安全チェックがあって、全員プールから出されます。

その時初めて、耳の中がゴロゴロ・ボワンボワンして、ちゃんと聞こえないことに気づきます。

ゴロゴロ・ボワンボワンいって耳がちゃんと聞こえない気持ち悪さは、不快極まりないのですが、奥に入り込んだ水は、頭を振ろうが、ケンケンしようが、思うように出てきてくれません。

諦めて、そのまま自転車をこいで祖母の家まで帰って、改めて頭を振ってみたり、綿棒で耳の掃除をしたりするのですが、大抵はそれでも耳のボワンボワンは取れません。

ところが、ある時、ふとした瞬間に、なんかの拍子に、耳の中の水がツツーと出てきます。

その瞬間に、「あっ、水が出てきた」と気づくんですが、その時の解放感と言っては大袈裟かもしれませんが、スッキリ感は格別なものです。

「耳が聞こえるって素晴らしい!」と、心底思います。

さて、今朝のエピソーでイエス様に癒してもらったのは、「耳が聞こえず舌の回らない人」であったとあります。

この人が男性であったことはギリシア語の形容詞の格変化から明らかですが、この男性は、完全に耳が聞こえない人として描かれているわけではなさそうです。

「耳が聞こえず」と訳されているギリシア語の形容詞は (κωφός) は、大雑把に言って三通りの意味があります。

1) 「耳が聞こえない」、2) 「話せない」、3) 「耳も聞こえず話せない」。このどれかです。

厄介なのは、「舌の回らない」と訳されているギリシア語の形容詞、 μογιλάλος です。この μογιλάλος という言葉は、新約聖書の中で、この箇所にしか、マルコ7章の32節にしか出てきません。ギリシア語訳の旧約聖書、七十人訳の中でも、たった1回しか出てきません。

「発話能力が著しく損なわれている」とか、「ほとんど話せない」ことを意味します。

このエピソード全体からイエス様に癒された男性の状態を推測すると、ほとんど耳が聞こえず、そのために言語獲得ができないケースに当てはまると言えそうです。

今日のお話の中で非常に特徴的なのは、ほとんど聞くことも話すこともできない人が、聞こえるようになり、話せるようになるという癒しの結果と対照的な、非常に人間的な癒し方です。

マルコの福音書に描かれているイエス様が行った「奇跡の業」には、各エピソードの中心トピックに応じて、3つのパターンがあります。

まず、「悪霊追い出し」、exorcismが中心テーマの場合、イエス様の言葉によって業が行われます。「手を置く」とか、「触れる」といった行為は一切なされません。

他方、「癒し」が中心トピックの場合、必ず、「手を置く」とか「服に触れる」といった「接触」が伴います。

3つ目は、一見、「癒し」が問題になっているかのような物語でも、よくよく読んでみると、実は「イエス様の権威」(ἐξουσία) が問題となっている場合、奇跡の業は「言葉」だけによって行われます。

今朝の物語は「癒し」の物語なので、イエス様の癒しの業は、接触を伴っています。

病気や障害の患部に直接触れることや、唾をつけるといった行為は、イエス様に限らず、治癒行為を行う人に共通する行為でした。

また唾液に何らかの治癒力があるという理解は、広く知られています。イエス様の一世代後のローマ帝国の役人で、博物学者でもあったプリニウスは、唾液そのものに治癒効果があると言っています。

また、2世紀前半から後半に活躍したギリシア人の医者ガレノスは、口の中でよく噛んだ小麦をオデキや吹き出物に塗りつけると、唾液の効能によって治ると書いています。(On the Natural Faculties)

私はマルコ福音書の、イエス様が唾をつけて癒しを行ういくつかの場面に、とても親しみを感じます。

小学校時代、服に覆われていない私の腕や肘、そして脚と膝小僧は、そこいら中、傷だらけでした。

小学校の退屈な授業中、あちこちにできている大きなカサブタがふと目に入ります。しかも彼らは、「ねぇねぇ、ちょっとむしってみない?」と囁きかけてきます。

一旦その声が聞こえたら、もはや抗うことはできません。先生の声は一言も聞こえなくなって、一心不乱にカサブタ剥がしにいそしみます。

途中で切れないように細心の注意を払いながら、大きなカサブタが剥けたときの達成感は、もう格別なものがあります。

これは、やったことの無い人にはわからない、知っている人しか知らない快感です。

しかし、そこにはちょっとした犠牲も伴います。どんなにうまく剥がしても、必ず出血します。それはカサブタ剥がしの喜びのために支払うべき代償です。

そのときどうするか。恐らく皆さんがピンときている通り、血が出ているところを自分で舐めて治療します。

その治療の甲斐あってか、手も脚も年がら年中傷だらけだった割には、大きな傷跡は残っていません。

さて、マルコは「イエス様は、ほとんど耳も聞こえず、話すこともできなかった男を治したんだ!すごいだろ!」と言うためだけに、この物語を書いたわけではないはずです。

福音書の物語は、それを聞く人たちへのメッセージでもあります。そして、ある意味では、福音書の中でイエス様に「癒される人たち」は、私たち自身でもあります。

神の声は、すべての人に向けて発せられているはずです。しかし、その声が聞こえる人は、残念ながら、あまり多くはありません。

私たちも皆、イエス様に耳を開いていただかないと、神様の声を聞くことができません。

そして、イエス様によって耳を開かれ、神様の声が聞こえるようになって初めて、私たちは、神様が私たちに託された言葉を、キリストの平和の福音を語る者とされます。

神の国を生き、キリストの平和を生きることは、大きな意味で、世界を癒す働きです。

世界は今、暴力によって、被造物のリズムを大きく逸脱した人間の経済活動によって、深く傷ついています。

気候変動がこのまま深刻化すれば、生態系全体に壊滅的なダメージを与えます。

大国の軍事活動は、止まらない暴力の連鎖の波を世界中に広げてきました。

世界を癒すためには、イエス様に癒されて、イエス様が私たちに与えられた、世界を癒す働きに加わる人が絶対に必要です。

だからこそ、イエス様が始められた、世界の癒しの業を続けるために、主が私たちの耳を開き、平和の福音を語り、そしてイエス様のもとに人々を招く者としてくださるよう祈る必要があります。

私たちの耳が開かれ、キリストの平和の福音を語る者とされたなら、私たちの行う、何気ない、それほど特別なこととは思えないことを通してさえ、神様はキリストの癒しの業を行なってくださるはずです。

私たちの発する一声が、一本の電話が、一枚の手紙が、短いラインのメッセージが、友人への小さなプレゼントが、世界を癒す働きの一つとなりますように。