聖霊降臨後第17主日 説教

2021年9月19日(日)特定20

マルコ9:30-37

コロナ禍前夜の2019年11月前半、輸入販売業のかたわら執筆業も手がける方が、仕事場近くの公園の移り変わりについて、Twitter上でこう呟きました。

「「危ないから」と遊具を撤去し、「危ないから」とボール遊びを禁じ、「危ないから」と花火を禁じ、「危ないから」と外遊びを禁じ、老人のゲートボール場となった公園。やがて老人たちもこの世を去り、誰もいなくなった。」

このTweetは、約1万4千回もretweetされ、新聞やニュースサイトでも取り上げられました。

この公園では、子どもたちがサッカーや野球、ドッジボールなどに明け暮れていましたが、ある時から「ボール遊び禁止」になりました。そして公園は、お年寄りたちのゲートボールの練習場となりました。公園をゲートボールの練習場にしたお年寄りによれば、「ゲートボールは遊びではない」そうです。保護者同伴なら、かつては花火もできたのに、新しく建ったマンションの住人の苦情で、これも全面禁止になりました。

この公園の話は例外的な事例ではありません。今や公園という公園に、「大声を出さない」「ボールで遊ばない」「走り回らない」といった禁止事項の張り紙が溢れています。

保育園や幼稚園には、「子どもの声がうるさい」という苦情がしょっちゅう寄せられます。そのため、園庭に出て遊ぶとき、声を出さないよう子どもたちに指導せざるをえない保育園すらあります。

日本はOECD諸国の中で唯一、過去20年以上に渡って貧困化が進んでいる国ですから、結婚して子どもがいる夫婦が、共働きをせずに生活することはほとんど不可能です。当然のことながら、共働きの親たちは、どこかに子どもたちを預かってもらうしかありませんが、保育園探しは容易ではありません。

圧倒的に不足する保育所を増やそうと、土地を見つけて保育所を建設しようとすると、十中八九、地元住民からの反対運動が巻き起こります。

子どもの声は歓迎されず、子どもたちから遊び場は奪われ、自然も奪われ、彼らに残されるのは老朽化したインフラと、莫大な借金と、汚染水を垂れ流す原発と、破綻した福祉制度と、廃墟が広がる限界集落化した街です。端的に言って、これほど子どもを育てる環境が劣悪な自称先進国は、他に無いと思います。

しかし、何よりも私たちが悲しむべきことは、教会までもが、日本社会の単なる縮図となってしまったという現実です。

これまでも度々触れて来たことですが、聖公会に限らず、変化を拒み続けてきた日本中の多くの教会が、信徒の超高齢化と、信徒数の激減のため、消滅の危機に瀕しています。

しかし、本当に由々しき事態は、「教会が無くなるかもしれない」ということよりも、教会から子どもたちがいなくなっている現実に、これほどまでに無関心でいられたということの方です。

今朝の福音書の中で、道すがら、十二人の中で誰が一番偉いかと延々議論して来た弟子たちに向かって、イエス様はこう言われました。

「もし誰かが一番になりたいと願うなら、その人はすべての人の最後の者、すべての人の僕/給仕となれ。」(v. 35)

そしてイエス様を受け入れ、イエス様を迎えるとはどういうことかを、非常に具体的に、誤解の余地が無い仕方で示されました。36節と37節の言葉を聞いてください。

「36 そして小さな子ども (παιδίον) を連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、彼を腕に抱いて言った。」「37 誰であれ、私の名の故にこのような小さな子どもの一人を喜んで迎えるなら、その人は私を喜び迎えるのである。そして、誰であれ、私を喜んで迎える人は、私を遣わした方を喜び迎えるのである。」

皆さん、ぜひこの言葉に、衝撃を受けてください。ショックを感じてください。

私が「小さな子ども」と訳したのは‘παιδίον’ という言葉で、生まれたばかりの赤ちゃんやハイハイできる程度の小さな子どもを指しています。

イエス様が神の国の福音を宣べ伝えていた時代のローマ帝国は、決して子どもに優しい世界などではありませんでした。生まれて来ても、大人から「要らない」とみなされた子どもはゴミ捨て場に捨てられる。それが、当たり前の光景でした。

「子ども」が「無価値なもの」として、ゴミとして捨てられるような世界の中で、教会は、ゴミ捨て場の山の中から捨てられた子どもたちを拾い集め、養い育てました。

なぜなら、それが「イエス・キリストを迎え入れる」ことそのものだったからです。

同じことを反対から言えば、子どもたちが歓び迎え入れられていない所では、イエス・キリストが拒絶されているということです。

教会の真ん中に子どもたちがいないなら、毎週日曜日に聖餐式をしていようが、「伝統的」で荘厳な礼拝をしていようが、大説教家による立派な説教が毎週なされていようが、そんなことはイエス様にとっても、イエス様を遣わされた父なる神様にとっても、モノの数に入りません。

日本では、教会の中で偉そうな人や、声の大きい人が、「自分は一番高いポジションにつきたいです」と直接言うことはまずないでしょう。けれども「私のして欲しいことをして欲しい」という要求は、あらゆる形をとって発せられます。多くの場合、「私がして欲しいことをするように」「私が続けてほしいことは止めないように」という声は、伝統に訴えたり、「他にもそう言っている人がいる」といった形で発せられます。

そして、そのような体裁を変えた「自分を一番にしろ」という要求が、もう半世紀もの間、日本中の教会で聞き入れられ続けて来たのでしょう。

気がつけば多くの教会が、「「危ないから」と遊具を撤去し、「危ないから」とボール遊びを禁じ、「危ないから」と花火を禁じ、「危ないから」と外遊びを禁じ、老人のゲートボール場となった公園」と同じ運命を辿ろうとしています。

伝統、traditioとは、過去から引き受けたものだけではなく、未来に引き渡すものでもあります。私たちが子どもたちに引き渡す「伝統」が、子どもたちのいない、メンテナンスに莫大なお金を要する老朽化した聖堂でいいのでしょうか?

教会の真ん中に子どもたちを迎え、未来を担う人々を迎え、彼らを育てなければ、教会に未来はありません。ですから、私はこの説教を、皆さんへの心からのお願いをもって結ばせていただきます。

どうか子どもたちのために、未来のために、変わることを、自分たちのしてきたことを止めることを受け入れてください。

最後にもう一度、36節と37節の主の言葉に耳を傾けましょう。

「36 そして小さな子ども (παιδίον) を連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、彼を腕に抱いて言った。」

「37 誰であれ、私の名の故にこのような小さな子どもの一人を喜んで迎えるなら、その人は私を喜び迎えるのである。そして、誰であれ、私を喜んで迎える人は、私を遣わした方を喜び迎えるのである。」