
2021年10月3日(日)特定22主日
創2:18-24; ヘブ2:9-18; マコ10:2-9
今朝の福音書朗読のエピソードは、ファリサイ派の人々がイエス様に、「婚姻破棄は合法か」と質問したことから始まったことになっていますが、離婚について話をするには、細心の注意が必要です。
離婚を経験した人、離婚の手続きを進めている人、離婚を考えている人、あるいは両親が離婚した子どもたちは、多くの場合、簡単に口にすることのできない痛みや、悲しみを抱えています。
何度かお話をしたことがありますが、私の母も二度結婚をし、そして二度離婚しています。母の最初の離婚の時は、私は乳飲児でしたからまったく何も覚えていません。
しかし二回目の離婚は、私が幼稚園の年長の時でした。「離婚」とは一体何なのかはすぐに理解できませんでしたが、母の離婚に伴って起こった変化については、よく覚えています。
「買い物に行こう」と言って母に連れ出されたこと。それまで住んでいた相模原の団地に二度と戻らず、幼稚園に行けなくなり、友達に会えなくなったこと。古くて汚くて暗い、お風呂もない汲み取りトイレのアパートで、母と二人だけの生活が始まったこと。それが嫌で嫌でしょうがなくて、家出して二駅離れた祖母の家に逃げたところ、母親が警察に捜索願いを出していて大騒ぎになったこと。兄弟のように仲の良かった従兄弟の両親から、「父親のいない子どもなんかとは、危なくてうちの子と遊ばせられない」と言われたこと。
その他にも母の離婚と結びついている記憶が沢山ありますが、幸せな記憶は一つもありません。
今朝の福音書朗読の始まりにあたるマルコ10章2節の、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」という質問は、奇妙な質問です。なぜなら、モーセの律法は、婚姻破棄の手続きを明確に示しているからです。
申命記4章1節にはこうあります。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」
1世紀前半のユダヤ教内部には大きな多様性がありましたが、離婚を禁じるユダヤ教の学派やグループは一つとして存在しませんでした。つまり、モーセの律法は離婚の手続きについて定めており、それに従って婚姻破棄をすることは何も問題が無いとすべてのユダヤ人(男性)が思っているわけです。
その中でイエス様だけが、神が天地を創造された時の意図に反するとして、離婚を問題視しているのです。
イエス様以外のすべてのユダヤ人にとって、問題は離婚ではありません。大問題は、モーセの律法の上に自分を置いて、自分だけが神の御心を知っているかのように振る舞うイエス様です。イエス様は、まったく違う目で世界を見ていたので、彼の語る言葉は、誰にも理解されず、誰にも受け入れられませんでした。
イエス様と同時代のすべての男たちは、離縁状と共に妻を家から放り出せば、責められるところは何もない。そう思っていました。しかしイエス様は、ユダヤ人男性の誰もが「何も問題はない」としていた離婚が、「大問題だ」と考えていたのです。
問題は大きく2つあります。
第1に、ユダヤ教は、夫が妻を去らせることしか定めていません。
女性の運命は、結婚前は父親の手にあり、結婚後は夫の手の中にありました。そして、夫に離縁された女性は直ちに生活苦に陥りました。夫に捨てられた女性が生きていく道は主に3つしかありません。
一つは、新たに結婚してくれる男性を探すことですが、離縁された女性が結婚相手を探すハードルは、初婚の女性よりもはるかに高くなります。結婚してくれる男性を見つけられない場合、離縁された女性に残された道は、女奴隷して自分を売るか、遊女として自分を売るかのどちらかです。いずれにしても、離縁された女性を待ち受ける運命は過酷でした。
そしてイエス様は、男が力によって人々を支配する現実に、強い憤りを感じていました。
ですからイエス様が、「婚姻破棄」は「神が結び合わせたものを引き離す」ことであり、神の天地創造の意図に反するものだと言う時、それは、離縁状を渡して妻を捨てて別の女性と結婚することに全く問題が無いと考えている男たちに対する、強い非難でした。
しかし「離縁状を渡して女性を去らせる」ことは、神が結び合わせたものを引き裂く行為だというイエス様の言葉は、ユダヤ人男性に対する非難に留まらず、より大きな意味を持っています。ここにもう一つの問題があります。
イエス様は、離縁状を渡して女性を捨てるという行為に、神が望んでおられる、人と人とのあるべき関係の破綻を見ているのです。神学的な言い方をすれば、神は、他者を愛する存在として人を創造されました。だからこそ神様は、人が互いに愛し合う時、その関係を何よりも喜ばれます。
しかし世界には、傷ついた関係、破綻した関係が溢れています。愛情を注がれるべき親から暴力を受ける子どもたちがいます。学校の教師から体罰を受け、虐待を受ける生徒たちがいます。いじめは子どもの世界だけではなく、大人の世界にも蔓延しています。在日朝鮮人や韓国人、あるいは中国の人々に対するヘイトスピーチは、日本社会の日常の光景となっています。
互いに愛し合うべき人間が、互いに傷つけ合い、互いに苦しめ合っています。
イエス様にとって、「男が離縁状を書いて女を捨てる」という行為は、日常生活のあらゆるレベルに蔓延している「愛の破れ」の、いわば頂点に位置するものでした。
ですから、今日の福音書朗読のエピソードは、禁止命令であるよりも、むしろ、私たちが破綻した関係の中で生きているという現実の描写です。傷つき、破れた関係は、病と同じように、神の国が到来する時には癒やされ、回復されるべきものとして示されているのです。
イエス様は病の背後に、神に敵対する力があると信じていました。新約聖書の中で、それは悪魔とか、サタンとか、闇の力と呼ばれています。
イエス様の視点から言えば、人が病で苦しむことは、神の天地創造の御心に適っていません。病は健康の破綻であり、あるべき状態からの逸脱です。イエス様による病人の癒しは、神の国が到来した時、すべての病が癒やされ、健康が回復されることを示しています。
しかしイエス様が来られた後も、すべての病が無くなったわけではありません。イエス様と同時代の、すべての病人が癒やされたわけでもありません。当然のことながら、教会から病人が一人もいなくなったことなどありません。
教会は病を癒すことはできません。教会にできることは、病の中にある人が祈られ、支えられ、たとえ病が癒やされなかったとしても、喜びを感じ、希望を感じられる場になることです。世界から病が無くならないように、関係の破綻が無くなることも無い以上、離婚も無くなりません。
イエス様に仕えた女性たちの中には、罪深い女性と呼ばれた人たちや、遊女たちがいたことはよく知られています。そして、この女性たちの中に、離縁された女性たちがいたことは確実です。
イエス様に倣う教会の成すべきことは、関係が破れ、離婚を選択せざるをえなかった人たちを断罪することでも、非難することでもありません。
教会は、私たちは誰もが、自分が人から傷つけられ、苦しめられるだけでなく、自分も誰かを傷つけ、苦しめてしまう、弱い存在であることを学ぶ場です。教会は、傷ついている自分が、他の人たちに受け入れられ愛されることによって、癒やされ、回復される場です。
そして私たちは、傷ついた弱い人間として、イエスのもとに集められた同じように弱く傷ついた人々と共に生きることを通して、互いに愛し合い、支え合う共同体として成長するのです。
主が、聖マーガレット教会を、傷ついた人が受け入れられ、回復される神の家族として成長させてくださいますように。