
2021年10月17日(日)特定24
イザヤ53:4-12; ヘブライ4:12-16; マルコ10:35-45
「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」
「神の国の民として生きる教会の中では、仕える者こそ尊い存在であり、最も仕える者が最も優れた者だ。」
このテーマは、マルコ福音書の中に繰り返し繰り返し出てきます。特に、マルコ福音書9章33節から37節のエピソードは、今日のエピソードと完全にパラレル、並行関係にあります。
そこでは十二人の弟子たちが、自分たちの中で誰が一番偉いかと議論をしています。
その彼らに向かってイエス様は、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言われます。
9章33節から37節のエピソードも、今朝の10章35節から45節のエピソードも、イエス様の受難予告の直後に置かれていることからも、この二つの箇所が意図的にパラレルになっていることは明らかです。
マルコ9章30節から32節は、イエス様の二度目の受難予告の箇所です。
「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
この直後に、十二人の弟子たちが、誰が一番偉いかと議論している場面が置かれています。
そして、今朝読まれた10章35節から45節の直前、32節から34節にはイエス様の三度目の受難と復活の予告があります。
その直後に、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、イエス様がメシアとして王位に就いた暁には、自分たちをNo. 2とNo. 3の座に就けて欲しいとイエス様に要望しています。このことを聞きつけた他の弟子たちは、ヤコブとヨハネに対して腹を立てます。
しかし10人の弟子たちとて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネが、「神の国の価値観と相容れない要求をしているから」腹を立てているわけではありません。
10人は、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたことに腹を立てていただけです。
さて、マルコの福音書は、イエス様が十字架に掛けられて死なれ、復活してから40年近く経ったときに書かれました。
イエス様の十字架刑と復活から40年後の教会に向けて書かれた書物の中で、「神の国では、皆に仕える者こそ、最も優れた者だ」という話が何度も繰り返されているのはなぜでしょうか?
これは、1世紀の教会の中にも権力争いが絶えなかったという何よりの証拠です。
教会のメンバーの一人一人が、自分が「してもらうこと」を求めるのを止めて、自分は「どのように仕えることができるか」と考えるようになるとき、そこに神の国が現れます。
しかし、そのような考え方や生き方が、自動的にできるようになるわけではありません。
教会はその歴史の初めから今に至るまで、「異邦人」の支配者の価値観に逆戻りし、その誘惑に負け続けてきました。
私と聖職候補生のMさんは、水曜日の午前中に勉強会をしていますが、今は Beyond Colonial Anglicanism 、『植民地主義的アングリカニズムを超えて』という本を一緒に読んでいます。
これは、世界中のアングリカンの教会で、神学教育や人材育成に関わっている信徒たちと教役者15人が書いた論文をまとめた論文集です。
2001年の出版ですから、すでに20年前の本ですが、「植民地主義」的なものを乗り越えるという課題は、ほとんど解決されないまま、今に至っています。
アングリカン・コミュニオンという教会は、英国とアメリカの植民地政策の結果として生まれた教会ですが、アングリカンの植民地主義的要素の大部分は、4世紀以降に教会とローマ帝国が一体化したことによって生まれた、帝国主義的キリスト教の遺産でもあります。
つまり、キリストの復活から約2000年後に生きる私たちも、「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るう「異邦人」の価値観によって形成された教会を引き受け、そこで生きているのです。
私が首にしているカラーも、教役者が身につける祭服類も、すべてローマ帝国の役人の衣装です。プロセッションは、帝国の役人による大名行列の名残りです。
当たり前の話ですが、イエス様はマイターなど被っていませんでした。イエス様は、ヨーロッパの石造の荘厳な聖堂とも、ローマ帝国の威厳を象徴するカテドラルとも無縁です。
こっそり告白しますが、私はヨーロッパの石造の教会建築が大好きです。絢爛豪華なカテドラルにも心惹かれます。日本に戻ってきた時、石造の教会がほとんどなくて、本当に寂しくなりました。
しかし、ヨーロッパのかつての「キリスト教国」で、教会として死んでしまった無数の聖堂を歴史的建造物として維持し、保存するために莫大な資金が費やされている現実を無視することはできません。
今、この時代に、私たちの目の前で起きていることは、教会はこれ以上、帝国主義と植民地主義の遺産の重みに耐えられないことを物語っています。
教会が歴史的建造物としてではなく、神の国の共同体として生き残る必要があるとするなら、そのために必要なことは、イエス・キリストを通して、「仕える」ことを学び、神の国の平和と豊かさを生きる人を育てることです。
例えば、私たちは、教会に来たらトイレがキレイになっていて当たり前だと思っているかもしれません。しかし教会には、トイレの清掃員がいるわけではありません。教会の仲間の誰かが、人知れず、ひっそりと、トイレを綺麗にするために仕えてくれています。
あるいは私たちは、教会から定期的に印刷物が届いて当たり前だと思っているかもしれません。しかし教会に印刷屋さんがいるわけではありません。兄弟姉妹の誰かが、そのために仕えてくれています。
教会に専任の公認会計士がいるわけではありません。毎週毎週、兄弟姉妹の誰かが、献金を数えてくれています。
きっと権力や地位や栄誉を求める思いが、私たちの中から消えて無くなることは無いでしょう。もしそういう思いが自分の中には無いと思っているとしても、それは形を、現れ方を変えているだけでしょう。
だからこそ私たちは、「人に仕えるよりも、自分に仕えて欲しい」という「異邦人」の性が自分の中に深く根付いていることを認めて、共に祈りましょう。
「仕えるために来られ、私たちに復活の命を与えてくださった主よ、どうか私たちにも、仕えることによって生まれる、神の国の豊かさと喜びを教えてください。アーメン」