
2021年10月31日(日)特定26
申命記 6:1-9; ヘブライ 7:22-28; マルコ12:28-34
先週の日曜日の福音書朗読は、マルコ10章46節から52節で、イエス様が盲人バルティマイを癒し、見えるようにする箇所でした。
そして先週の福音書朗読と今朝の福音書朗読の間には、とても大きな、そして非常に重要な、場面設定の変化があります。
先週の日曜日、イエス様がバルティマイの目を癒したのは、イエス様がエリコの町を通過するときのことでした。今日の物語の舞台は、エルサレムに移動しています。
マルコ福音書の物語では、イエス様は11章の11節でエルサレムに入られて、その後の出来事はエルサレムとその周辺で展開します。
イエス様の時代のイスラエルでは、宗教、政治、経済まで、すべての中心が神殿でした。エルサレム神殿は力と権威の源泉です。
しかしイエス様は、神殿を全面的に否定しました。そして神殿中心体制の権威を拠り所としつつ、その体制を支えている勢力と真っ向から対決しました。
このことは、イエス様がエルサレムで最初に行った業が宮聖めであったことにも象徴されています。そして宮聖めの出来事こそ、イエス様の運命を決定づけました。神殿中心体制の守護者たちは、この直後に、イエス様を抹殺する決意を固めました。
12章では、本来敵対関係にあるファリサイ人とヘロデ派が手を組んでイエス様を陥れようとし、次いでサドカイ派がイエス様に論争を挑みます。
そして最後の挑戦者として登場するのが、今日の福音書朗読の律法学者です。
一見、この箇所でのイエス様と律法学者とのやりとりは、友好的に、あるいは、少なくとも敵対的ではないように見えます。しかし、一見友好的な見かけの下には、乗り越えることの出来な深い溝が横たわっています。
今朝の朗読箇所を除いて、マルコ福音書では「律法学者」という言葉が19回出てきます。その全てにおいて、イエス様と律法学者の関係は敵対的です。律法学者とイエス様との友好関係を伺わせるような箇所は一つとしてありません。
更に、今朝の福音書朗読の直後に当たる、12章35節から37節の話も、38節から40節の話も、律法学者に対する非難です。
マルコ福音書全体の構成を考慮に入れると、「今日の箇所の律法学者だけはイエス様の「味方」だ」とは言えそうにありません。しかも、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という律法学者の質問も、それに対するイエス様の答えも、極めて形式的なものです。
モーセの律法には613の掟があると言われますが、律法学者たちは、すべての掟に同じ重要性があるとは考えていませんでした。
学校の校則のように、「あれをしなさい」「これをしてはいけない」という規則は、無限に増えてゆきます。無限にルールが増え続けると、ルールを守ることそのものが目的化し、遂には人間がルールの奴隷になります。日本の学校に溢れるブラック校則はその最たるものです。
ですから、「ルールは何のためにあるのか」、ルールが目指す「価値」は何かが問われなくてはならなくなります。
律法の中心には、出エジプトのときに、神が2枚の石の板に書き記してモーセに与えたと言われる、「モーセの十戒」があります。十戒は、前半が神と人との関係を規定する掟で、後半は人と人との関係を規定する掟になっています。
ですから、大雑把に言えば、律法のすべての掟は、神と人との関係を規定するものと、人と人との関係を規定するという二つのカテゴリーに分けられます。
そして、神と人との関係を定める掟の核にある価値は、申命記6章5節に集約され、人と人との関係を規定する価値は、レビ記19:18に表現されているとみなされていました。
「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが申命記6章5節です。
そして「隣人を自分のように愛しなさい」、これがレビ記19章18節です。
これは、ユダヤ人にとっての社会通念、あるいは律法に関する共通認識であって、律法学者の質問にも、イエス様の答えにも、オリジナリティーはありません。
それでは、イエス様と律法学者は、申命記6章5節とレビ記19章18節を、同じように理解しているのでしょうか?恐らく、答えは「No」です。
律法学者はイエス様に言います。「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」
ここで彼は正しいことを言っています。模範解答をしています。しかしイエス様と律法学者は、同じ言葉の中に、同じ文章の中に、同じものを見てはいません。
イエス様に言わせれば、律法学者は掟の本当の意味をまったくわかっていないのです。もしわかっていたなら、「長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み」、「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」者たちの一人にはなっていないはずです(12:38-40)。
ですから、「あなたは、神の国から遠くない」というイエス様の言葉は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」というイエス様の言葉と同じように、律法学者に対する皮肉でしょう。
律法学者たちは、自分は健康で、医者はいらないと思っています。しかし、イエス様に言わせれば、彼らは自分が病気であることに気づいていないだけです。
ですから、マルコ福音書に描かれるイエス様にとって、「律法学者」というのは、神の掟のエキスパートだと自称しながら、本当は神が何を求め、何を喜ばれるかを知らない者の代名詞なのです。
この律法学者に起きていることは、教会の中でも、私たちにも起きていることではないでしょうか?
「イエス様の言葉」を掲げながら、実際にはイエス様の思い、イエス様の意図とはまったく違うことを考えている。そんなことはないでしょうか?いや、それどころか、イエス様の言葉を掲げながら、イエス様の思いとは正反対のことを行うことだって少なくないでしょう。
教会の歴史に目を向ければ、「あなたの敵を愛しなさい」という言葉を掲げて、「敵を殺す時には、愛をもって殺さなくてはならない」と主張する「正戦論」が生まれました。そして、この正戦論は、キリスト教倫理の強固な「伝統」となり、今もそれは生きています。正戦論の伝統があるから、Church of Englandには従軍チャプレンがいるのです。
イエス様は、偉くなりたい者は、皆の奴隷になれと言われました。それなのに教会の「指導者」たちは、特権階級となり、貴族となり、奴隷の所有者となりました。その上、聖書を盾にとって奴隷制度を温存してきました。
そこまで話は大きくなくとも、私たちの教会生活の中にだって、イエス様の思いに反することは色々ありそうです。
「地球環境」の保護や持続的な経済システムへの移行の必要を覚えて祈ろうと言いながら、私たちは毎週のように、大量の印刷物を刷り続けています。ペーパーレス化を進めるための議論は、残念ながらほとんどなされてきませんでした。
去年と今年はバザーがなくなりました。それは寂しいことです。しかし、毎年、バザーのときに大量の使い捨ての食器を使うことは、地球環境を守るために祈ることと相反します。コロナ禍に突入して以降、更に大量のペーパータオルを使うようになってしまいました。
今の私たちの当たり前の生活は、やもめの家を食い物にする律法学者のように、未来の世代を食い物にすることで成り立っています。
もちろん、私たちの生活を、今すぐ劇的に変えることはできないでしょう。しかし私たちは、キリストの弟子として、神の国の共同体となるために召されました。
神の国のコミュニティーとして生きることを願いつつ、私たち自身の中に存在する、「やもめを食い物にする律法学者」と向き合いながら、共に祈りましょう。
主よ、私たちに「隣人を愛する」ことを教え、「共に生きるコミュニティー」を作る道を歩ませてください。アーメン