
2021年11月7日(日)特定27
列王記上17:8-16; ヘブライ9:24-28; マルコ12:38-44
福音書の朗読を聞きながらお気づきになったと思いますが、今日の福音書には2つのエピソードがあります。38節から40節の律法学者に対するイエス様の激しい非難。41節から44節のレプトン銅貨二枚を献金箱に投げ入れたやもめの話です。
先週の日曜日にもお話ししたように、マルコ福音書において、律法学者とイエス様との間にはいかなる友好関係もありません。さらに、「律法学者」はマルコ福音書の中で、ある特別な機能を担っています。
律法学者は、イスラエル社会の中で、普段は互いに対立し合うグループを、イエスの敵対者として、一つに結びつけるのです。
福音書の中に度々登場する、長老、祭司長、ヘロデ派、サドカイ派、ファリサイ派といったグループは、宗教的立場も政治的立場も異にしています。しかし、互いに対立するすべてのグループを、「敵の敵は味方」の論理によって、律法学者が結びつけるのです。
ですから、38節から40節の律法学者に対する激しい非難は、イエス様の敵対者すべてに向けられた非難でもあります。言葉を代えれば、律法学者はイエス様に敵対するすべての人々を代表しているのです。
宗教的立場も政治的立場も異なる人々が、一致団結してイエス様の敵となり、イエス様を亡き者にしようとしたわけですから、そこには対立や違いを超えて、イエス様の敵対者たちが共有している何かがあったはずです。それがエルサレム神殿です。
41節には、多くの金持ちが献金箱にお金を投げ入れている様子を、イエス様が見ていたと書かれていますが、この献金箱はエルサレムの神殿に置かれていたものです。
神殿の入り口から一番手前には「異邦人の庭」があり、その一つ奥の「女性の庭」を入ってすぐのところに、13もの献金箱が置かれていました。しかもこの13の献金箱は、お金を集めやすいように、ラッパのような形になっていました。
イエスが目にしていた神殿は、ヘロデ大王によって拡張工事が始められ、イエスの時代にも工事が延々と続く、巨大で荘厳な建造物でした。この荘厳な神殿は、世界中に離散するすべてのユダヤ人の富を収奪する装置とならなければ、決して維持することのできないものでした。
この抑圧と収奪のシステムとなった神殿が、ヘロデ大王の威光を示し、律法学者によってイエスの敵として一つに結ばれた神殿貴族と宗教指導者たちの特権と暮らしを支えていました。
宗教的立場も政治的立場も違って対立するグループがイエスの敵として結束したのは、日本的表現を使えば、神殿によって支えられている利権が脅かされたからです。
イエス様は、神殿経済が拝金主義に突き動かされていることを見抜いていました。だからこそイエス様は宮聖めの場面で、旅人を襲って金品を奪う追い剥ぎ強盗に神殿を例えました。そしてイエス様は、完全に神殿を退けて、その崩壊を予告したのです。
「律法学者」は、神殿利権によって特権と裕福な暮らしを享受するイエスの敵対者を代表しています。
同じように、42節に登場する「貧しいやもめ」は、神殿によって、神殿利権の受益者たちによって「食い物」にされている、すべての人々を代表しています。
やもめが神殿の献金箱に投げ入れた2枚のレプトン銅貨、1クァドランスは、1デナリの64分の1に当たります。1デナリは一日分の労働賃金であり、労働者の家族がその日を食い繋ぐために必要な金額です。その64分の1では、恐らくパン1つすら買えなかったことでしょう。
神殿利権に寄生するイエス様の敵対者たちによって食い尽くされた末、やもめの手の中に残っていたもの。それが2枚のレプトン銅貨でした。そして1クァドランスは、この貧しいやもめの命の値段でした。
「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」
「これはイエス様がやもめの行動を賞賛している言葉だ!」クリュソストムスも、ヒエロニムスも、アウグスティヌスも、その後に続くほとんどすべての説教者たちも、そう捉えてきました。
私自身もここを、貧しいながらも全てを神様に献げるやもめをイエス様が褒めている箇所だと思ってきました。しかし今は、そのような理解は間違っているし、そのような解釈を正当化することは、イエス様が語った神の国の福音と、決して相容れないと思っています。
もしイエス様が、この貧しいやもめの行動を称賛しているとすると、イエス様はやもめを食い物にする神殿と、神殿利権に寄生して特権と裕福な暮らしを守っている人々の立場を肯定していることになります。言葉を変えるなら、抑圧と搾取と収奪のシステムによって人々を貧しくし、生きられないようにすることを、イエス様が認めているという話になります。
しかし、イエス様は神殿を否定し、その崩壊を告げました。その神殿によって、貧しい女性が食い者にされることをイエス様が認めることなどあり得ません。
だとすれば、イエス様はやもめの行動を賞賛しているのではありません。
イエス様は、やもめを食い物にしているその体制を悲しみ、嘆いているのです。43節と44節の言葉は、イエス様による神殿体制の風刺でり、嫌味であり、そして強烈な皮肉です。
イエス様が語った皮肉、嫌味、風刺として43節と43節を読めるようになれば、なぜイエス様が神殿を否定し、神殿体制を支える人々を徹底的に非難しているのかがわかります。そのとき私たちは、世界の中で絶えず働き続けている「神殿化」の力に、初めて気づきます。
もう10年ほど前のことになりますが、アメリカの博愛主義団体が、人々の年収と慈善団体への寄付行為との間に、何らかの相関関係があるかどうかを調査しました。その結果はなかなか興味深いものです。
年収570万円から850万円の人たちは、収入の平均7.6%、約43万円を様々な慈善団体に寄付をしているのに対して、年収2,270万を超える人たちは、平均2.8%、約63万5千円しか寄付をしていませんでした。
自分のために「有り余る」富を求めようとする人は、「与えたもの」が利益として返ってこない限り与えようとはしないものです。
「やもめを食い尽くす神殿に、貧しいやもめが全てを献げたことをイエスが賞賛している」と考えた教会の中で、崩壊した「神殿」が復活しました。
かつてのキリスト教国を飾る大聖堂も祭服も、金や銀に輝くチャリスもパテンも、イエス様が否定した「神殿」が教会の中で復活したことを物語っています。
しかしイエス様の時代から約2千年後の今、私たちは「第二の神殿崩壊」を迎えようとしているようです。
今月の23日に行われる第139定期教区会に、聖マーガレット教会として議案を提出いたしました。
この議案を提出することになったのは、端的に言えば、これまで通りにいくと、聖マーガレット教会ですら、そう遠くないうちに、財政破綻に陥るからです。大きな聖堂を建てて、メンバーの献金によってそれを支えるというこれまでの教会モデルが、もはや立ち行かなくなりました。
しかし私は、大きな聖堂を失うことは、悲しみでも、嘆くべきことでもないと思います。
エルサレム神殿の崩壊は、イエス・キリストの弟子たちにとっては解放でした。神殿が崩壊したことで、教会は特定の場所にも、特定の建造物にも縛られない自由を手に入れました。教会は聖霊の導きのままに出て行き、新しい拠点を築き、神の国の働きを続けました。
きっと私たちも、聖霊の働きによって「神殿化」の誘惑から自由にされ、神の国のコミュニティーとして、新たな生き方を見出すことができるのではないでしょうか。