
2021年12月5日(日)降臨節第2主日
バルク5; フィリピ 1:1-11; ルカ3:1-6
今朝の福音書朗読は、バプテスマのヨハネが、イエス・キリストのために道備へをする預言者であることを宣言している箇所です。
ルカの福音書、そしてマタイの福音書は、預言者と律法の時代、つまり旧約の時代を締めくくる最後の預言者として、バプテスマのヨハネを位置付けています。ルカ福音書16章16節にはこうあります。「16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。」
ルカによれば、バプテスマのヨハネは、新しい時代、神の国の到来を予告する預言者です。
それに対して、イエス・キリストは単なる預言者ではありません。なぜなら、「新しい時代」、神の国の時代が、イエス・キリストその人によって始まったからです。しかし「新しい時代」は、政治的空白地帯で始まるわけではありません。
イエス・キリストは、この世の権力者たちが支配者として振る舞っている所に、この世の王国とは違う、新しい統治体制を打ち立てようとします。
ルカ福音書第3章の冒頭の2節は、このことをよく示しています。3章2節と3節を読んでみましょう。
「1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。」
ここに名前が上がっているのは、当時のローマ帝国の中で、そして神殿を中心とするイスラエル社会の中で、権力の中枢にいる人々です。
ティベリウスは、バプテスマのヨハネやイエス様と同時代のローマ皇帝です。彼はアウグストゥスの死後、紀元後14年に皇帝になりました。ティベリウスの治世の第十五年というのは、紀元後27年か28年に当たります。
皆さんの中には、当時のユダヤ総督、ポンティオ・ピラトの名前を知らない人はいないでしょう。毎週、私たちが信仰告白として唱えているニケア信経に名前の出てくる、あの人です。
ピラトは紀元後の26年から36年までユダヤ地方を治めるローマ総督でした。私たちが毎週、「ポンテオ・ピラトのもとで、わたしたちのために十字架につけられ」と唱えているのは、彼こそイエス様を十字刑に処する権威を持っていた人物だからです。
ガリラヤの領主ヘロデというのは、ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・アンティパスのことです。バプテスマのヨハネは、このヘロデ・アンティパスの手にかかって獄中で首を切り落とされました。
紀元前4年にヘロデ大王が死んだ後、アルケラウスという息子が王位を継ぎますが、紀元後6年にローマ当局によって廃位されます。その結果、イスラエルは王国としての地位を失ってローマ帝国の直轄領となり、ヘロデ大王の王国は4つの領域に分割されます。
ヘロデ・アンティパスの兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方を治め、リサニアがアビレネを治めることになりました。彼らはもはや王ではなく、ローマ帝国から統治を委託された領主に過ぎませんでした。
しかし、ヘロデ大王自身もローマ帝国の傀儡だったので、民衆にとっては、タイトルが領主であろうが、王であろうが、大差はありませんでした。
2節の最初に名前が出てくるアンナスは、紀元後6年から15年まで大祭司の地位にありました。しかしローマ総督グラトゥスによって大祭司の職を奪われ、彼の5人の息子次々と大祭司になっては辞めさせられるということが紀元後の18年まで、3年余り続きます。
紀元後18年にアンナスの娘婿のカイアファが大祭司となったところでようやく落ち着き、36年までその地位にとどまりました。
バプテスマのヨハネとイエス様の時代の大祭司はカイアファで、アンナスはすでに大祭司ではありません。しかし、大祭司一家の長として、アンナスは神殿中心体制の中で大きな力を握っていました。
イエス様が十字架にかけられる前に逮捕された時も、まずアンナスの前に引き出されたことからも、彼の影響力がうかがえます。(ヨハネ18:13)
さて、ルカはなぜ長々と、ローマ帝国とイスラエルの神殿中心体制の中で「力をふるう者たち」の名前を列挙しているのでしょうか?それは、これらの人々が闇の支配者だからです。
今朝、私たちは詩篇に代わってザカリアの賛歌を唱えました。これはルカ福音書の1章67節から79節で、バプテスマのヨハネの父、ザカリアが唱えた詩です。78節と79節で、ザカリアはこのようにうたいます。
「78 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、79 暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
「暗闇と死の陰」。これこそ預言者たちが声を上げる場です。
旧約聖書の預言者と言われる人々は、支配者や社会的エリートが正義を捨て、貧しい者たちを抑圧し、やもめたちを食い物にして、豊かさと特権を享受するところで、神の裁きと滅亡の日を宣告します。
ルカ福音書3章1節と2節は、「暗闇と死の陰」を生み出し、その中に人々を陥れている当事者たちを名指ししています。
旧約の預言者は、神の裁きと滅亡を告げるだけではありませんでした。預言者は、「暗闇と死の陰」にいる者たちに、神の慰めと、解放の希望をも語りました。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
この言葉は、イザヤ書40章3節から5節の引用です。これは、イザヤ書40章の直接の文脈では、国を失い、バビロンに捕囚として連れて行かれたユダの人々に、祖国への帰還と復興の希望を告げる言葉です。
ルカは、3章1節と2節で、闇の作り主たちを名指ししつつ、彼らによって苦しめられ、虐げられ、食いものにされている人々、「暗闇と死の陰」にいる者たちに、慰めと解放を告げる最後の預言者として、バプテスマのヨハネを描いています。
このバプテスマのヨハネは、イエス様がもたらす「新しい時代」の前にやって来た最後の預言者ですが、実は、「預言者の時代」が終わることはありません。
預言者は時のしるしを読み、不正を告発し、人を出し抜くことで自分の利益と、自分の安全を確保しようとする者たちに「滅び」を宣告します。抑圧と不正がある限り、「預言者の時代」は終わりません。いえ、終わってはなりません。
私たちはキリストの光に照らされるとき、今までは見て見ぬふりをしてきた「この世の闇」を見ることができるようになります。なぜなら、イエス・キリストによって、慰めと、再生と、解放の時代が、すでに始まっているからです。
アドヴェントのこのとき、バプテスマのヨハネを遣わされた神が、私たちをも「暗闇と死の陰」の中にある人々のもとに、慰めと、再生と、解放の希望、キリスト・イエスの光を携えて行く預言者としてくださいますように。