降臨節第4主日 説教

2021年12月19日(日)降臨節第4主日

ミカ5:1-3; ヘブライ10:5-10; ルカ1:39-55

早いもので、今日はクリスマス前の最後の日曜日、降臨節の第4主日となりました。教会の暦では降臨節の第1主日が元旦に当たり、その日から新しいサイクルの聖書日課で聖書の朗読が始まります。

今年はC年で、ルカ福音書を中心に読む年に当たりますが、降臨節第2主日から、今日、第4主日に至るまで、福音書朗読はバプテスマのヨハネに関わる箇所から取られています。

クリスチャンであれば、バプテスマのヨハネ、あるいは洗礼者ヨハネという名前を聞いたことのない人は一人としていません。私たちクリスチャンは、何も疑問を持たずに、バプテスマのヨハネは「イエス様のために道備えをした人」だと信じています。

ところが、どの福音書にも、バプテスマのヨハネが一体どのような意味で、イエス様のために「道備え」をしたのかは書かれていません。

しかし、バプテスマのヨハネがどのようにイエス様の「道備え」をしたのかは書かれていないのに、私たちクリスチャンは、「バプテスマのヨハネがイエス様の道備えをした」ことを疑いません。そして、クリスチャンがバプテスマのヨハネに関して何も疑問を抱かない時、福音書という書物が書かれた大きな目的の一つが達成されていることになります。

福音書という書物は、子どもに読んで聞かせるためのおとぎ話として書かれたわけではありません。福音書は明確に意図を持って書かれた書物です。福音書を書いた人々は、自分自身が所属する共同体が直面している問題を解決するために、書物を書きました。

そして、すべての福音書が共通して解決しようとしている問題の一つが、「バプテスマのヨハネ問題」でした。

「イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けた」という歴史的事実は、使徒たちの時代から1世紀の終わりに至るまで、教会にとって大きな頭痛の種でした。

イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたことが、なぜそれほど大きな問題なのでしょうか?それは、神の国の到来を最初に告げ知らせたのはバプテスマのヨハネで、イエス様ではなかったからです。神の国運動の創始者は、イエス様ではなく、バプテスマのヨハネなのです。さらに、罪の赦しのための洗礼も、バプテスマのヨハネが始めたことです。

しかも、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたということは、イエス様がヨハネの教えを受け入れて、彼を指導者とする教団のメンバーとなり、ヨハネが始めた神の国の運動に加わったということを意味します。

それは同時に、イエス様がヨハネの弟子になったということでもあります。弟子になるということは、指導者の権威の下に自分を置くことですから、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたということは、イエス様はバプテスマのヨハネの弟子として、彼の権威の下にあることになるわけです。

ところが、バプテスマのヨハネの弟子として神の国運動に加わったイエス様は、何らかの理由で、師匠とたもとを分かちます。そして独自の神の国運動を始めました。

イエス様が、なぜバプテスマのヨハネとたもとを分かつことになったのか、福音書には何も書かれていません。確かなことは、バプテスマのヨハネがヘロデ・アンティバスによって殺害された後も、二つの神の国運動が併存していたということです。

バプテスマのヨハネが命を落とした後も、さらに時代が下って、教会が生まれた後も、バプテスマのヨハネの弟子たちは存在し続けました。

神の国運動として後発の教会は、イエス様がヨハネから洗礼を受け、ヨハネの弟子として、ヨハネが始めた神の国運動に加わったという歴史的事実を否定することはできません。

しかし教会は、イエス・キリストを主、メシア、救い主と告白するのですから、イエス・キリストがバプテスマのヨハネの権威の下にあると認めることはできません。

ここまで来れば皆さんは、福音書の記者たちは、「バプテスマのヨハネ問題」に直面して、何をしようとしたのかお分かりになると思います。

ルカの福音書も含め、4つの福音書はすべて、どうにかして、イエス様をバプテスマのヨハネの権威の下から解放して、バプテスマのヨハネをイエス様の権威の下に置こうとしているのです。

ルカの福音書で言えば、1章5節から3章20節までがこの目的のために当てられています。今朝読まれた1章39節から55節は、その一部です。

今朝の福音書朗読の中で、表面上の主人公はマリアとエリサベトですが、実は物語はイエス様とバプテスマのヨハネを巡って展開しています。ここでテキストは何をしているのでしょうか?マリアとエリサベトの会談は、何を意図して書かれているのでしょうか?

エリサベトがマリアの挨拶を聞いた時、まだエリサベトのお腹の中にいるバプテスマのヨハネが、喜び踊ります。そしてマリアを迎えたエリサベトが、祝福された女性としてマリアを讃え、さらにマリアの胎に宿る子を「わたしの主」と呼びます。

エリサベトには天使は現れず、エリサベトが子を宿すと告げられた夫のザカリアは、天使の言葉を信じませんでした。しかしマリアには天使が直接現れ、彼女は天使の言葉を信じました。

マリアの讃歌と呼ばれる美しい詩は、神を讃えると同時に「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と、マリア自身を称えます。しかしすでに見たように、エリサベトの讃歌の方は、その全体がマリアを讃えることに充てられています。

ついでに言いますと、ルカは大急ぎで、バプテスマのヨハネをヘロデ・アンティパスの牢獄に放り込みます。そして、イエス様が洗礼を受けた場面に、ヨハネはいないことにしています。(3:21-22)

ですから、ルカの福音書だけを読んでいる人には、イエス様が誰から洗礼を受けたかは分からないのです。

皮肉な話ですが、私たちが毎年毎年、アドヴェントの度に、バプテスマのヨハネを「イエス様の道備え」をした人として語り継ぐことによって、私たちはバプテスマのヨハネを通して成された神の救いの働きに対して、益々盲目になります。

だからこそ私は皆さんに、バプテスマのヨハネは、単なるイエス様の先駆者ではなかったことを知っていただきたいのです。

イエス様が、バプテスマのヨハネから罪の赦しの洗礼を受けていなければ、教会は新たなメンバーとなる人に洗礼を授けたりはしていません。バプテスマのヨハが始めた神の国運動が無ければ、イエス様の神の国運動もありませんでした。

つまり、バプテスマのヨハネがいなければ、教会は存在していなかったのです。

すでに述べたように、神はバプテスマのヨハネを通しても、救いの業を成就されました。

イエス様の母マリアが、神の救いの業の中で特別な位置を占めているのだとすれば、バプテスマのヨハネの母エリサベトも、特別な位置を占めています。エリサベトは、単なるマリアの引き立て役ではありません。

神の国の運動は、使徒たちを通してだけ展開したのではなく、師匠亡き後の、バプテスマのヨハネの弟子たちを通しても展開されました。神は、イエス・キリストと教会を通して働かれるだけではなく、バプテスマのヨハネと彼の弟子たちを通しても働かれました。

ですから、私たちクリスチャンが、イエス・キリストによって託された使命としてコミットしている神の国は、バプテスマのヨハネによって私たちに託された使命でもあるのです。

私たちは、イエス・キリストを通してなされた神の救いの業を讃えるために、神が用いられた他の人々の働きを過小評価する必要はないでしょう。

だからこそ、この朝、神がバプテスマのヨハネを通して、マリアを通して、そしてエリサベトを通して、救いの業を成就してくださったことに感謝しながら、讃美と祈りをお献げしましょう。