
2021年12月24日(金)降誕日第一聖餐式
イザヤ52:7-10; ヘブライ1:1-12; マタイ 1:18-25
コロナ禍はまだ過ぎ去っていませんが、今年も共に集ってクリスマスを祝う恵みを与えられたことに、心から感謝しています。昨年はクリスマス礼拝の中で、再度の公祷休止のアナウンスをしなければなりませんでした。しかし今年のクリスマスには、その悲しみはありません。それも感謝なことです。
さて、今晩の福音書朗読、マタイ1章18節から25節は、ルカ福音書1章26節から38節と手を取り合って、「マリアの処女懐胎」の教義を証明する箇所として読まれ続けてきました。
恐らく、マタイ1章18節から25節とルカ福音書1章26節から38節は、共通の文書資料を元に書かれたと思われます。そして、マタイ福音書の背後にある教会と、ルカ福音書の背後にある教会では、「イエス・キリストは処女から生まれた」と語られていたのでしょう。
しかし、後に教会の中で発展した、いわゆる「マリアの処女懐胎」という教義は、分不相応な重要性を与えられ、しかもマタイの福音書のイエス誕生の物語は、文脈から切り離されて、「処女懐胎の話」としてしか読まれなくなってしまいました。
新約聖書に収められている書物の中で最も古いものは、福音書ではなく、パウロが書いた手紙類です。その中に、イエス・キリストが処女から生まれたと伺わせるような要素はありません。
「福音書」と呼ばれる書物の中で最も古くに書かれたのは、マルコによる福音書です。しかし、紀元後の66年から70年の間に書かれこの福音書に、イエス・キリストの誕生に関する話はまったくありません。イエスの母マリアの名前は、たった一度、しかも、極めて否定的な文脈で現れるだけです。
更に、紀元後の100年に極めて近いところで書かれたと見られる、一番新しいヨハネによる福音書にも、処女懐胎の話はおろか、イエス・キリストの「誕生」の物語もありません。ヨハネ福音書には、イエスの母マリアの名前は一度も登場しませんが、イエス様は「ヨセフの息子」として二度に渡って言及されています。
つまり、ヨハネの福音書の教会にとっては、イエス様がヨセフの息子であったとしても、イエス様が救い主であることの障害にまったくならなかったのです。
4つの福音書を横断的に読み、さらにその行間を読み解いてみると、問題は父ヨセフではなく、母・マリアであることが見て取れます。
恐らく、「マリアの息子が神に選ばれた救い主であるはずがない」と考えさせる何かがあったのでしょう。そして、その「何か」というのは、マリアとヨセフとその子どもたちのことをよく知っている人々は、「イエスはヨセフの子ではない」ことを知っていたのでしょう。
以前もお話ししたことがありますが、15年ほどまで、上智大学時代にお世話になったホアン・マシア神父さんが、吉祥寺のナミュールノートルダム修道院でミサの司式と説教をされました。
その説教の中で、マシア神父さんはシスターたちを前に、「マリア様はレイプ被害者で、イエス様はレイプ犯の子どもであったかもしれない」と言われました。それはシスターたちにとっても、そして私にとっても、なかなか衝撃的な言葉でした。
その年はアメリカがイラクに侵攻し、日本も自衛隊を送り、イラク戦争が始まった年でした。そしてマシア先生は、「イエス・キリストは、軍隊を送った私たちの間にでは無く、イラクで連合軍の爆撃に怯える人々と共におられるでしょう」という言葉で、その日の説教を締めくくられました。
父なる神が、人々が眉をひそめるような出自の男を選び、その男を通して「インマヌエル」となることを、「世の人々の間に住まう」ことを選ばれた。しかも、神が「人の間に降って来て、人と共に住まわれる」その仕方は、人間的な期待や予想と全く違ったのです。
そこにこそ神の救いの業の神秘があるわけですが、人間の側では、神の救いの業の神秘を、「この世に受け入れやすい、綺麗な話にしたい」という誘惑が働きます。
マタイ福音書とルカ福音書の記者の中に働いた誘惑は、その後の教会の歴史の中でも働き続け、イエスの母は「理想の母にして永遠の処女」という地位を与えられました。
「永遠の処女が理想の母」だと言うことは、性的関係を通して生まれてくる人間は呪われた存在だと言っているようなものです。しかし父なる神は、世の闇の中に生まれたイエスをキリストとし、世の闇の中に住む人々と共にいる道を選ばれました。
今日の福音書朗読の本当の主人公ヨセフは、いいなずけのマリアが妊娠しているという知らせに苦しんだはずです。心の中に、怒りが込み上げたはずです。
マリアは自分の子が誰の子か知っていたかもしれません。しかしヨセフは、マリアが宿している子が一体誰の子なのか知りませんでした。
彼が取るべき当然の行動は、マリアの胎の子は自分の子ではないと言って、マリアを離縁することです。ところがヨセフは、神を畏れるユダヤ人男性が取るべき行動を取りませんでした。
彼はむしろ、「普通のユダヤ人男性」なら絶対にしない決断をしました。誰の子か分からない子を宿すマリアと、そのお腹の子とを、引き受けることにしたのです。
マタイ1章25節はさらりと、マリアが生んだ子に、ヨセフがイエスと名づけたことを記していますが、「名をつける」という行為は、養子を自分の子として引き受けることを意味しています。
こうしてヨセフは、誰にも望まれない子を宿したマリアを、苦しみ、悩みつつ受け入れ、生まれてくる子をも受け入れ、養い育てたのです。
そして神様は、このヨセフの決断を喜び、祝福し、誰の子かも分からぬイエスを「インマヌエル」とされました。
イエス・キリストは、キレイな世界に来られたのではありません。誰もが羨む、絵に描いたような幸せな家庭に、イエス様が生まれたわけでもありません。
むしろ、神は、ドロドロして、ひっちゃかめっちゃかで、目を覆いたくなるような世界の真っ只中に生まれたイエス様をインマヌエルとされました。
神は、悩み、苦しみながら生きる人々の間におられる道を選ばれたのです。
だからこそ私たちは、クリスマスを祝うこの夕べ、大して美しくもなく、問題だらけの世を愛し、イエス・キリストを通して、そこに生きる人々と共にいることを選ばれた神に、感謝と賛美を献げましょう。
そして主が私たちを、非常識な憐れみの心をもって、マリアとその胎の子を迎えたヨセフに倣う者としてくださるようにと祈りましょう。
クリスマスおめでとうございます。