
2022年1月1日(土) 主イエス命名の日
出エジプト 34:1-9; ローマ 1:1-7; ルカ 2:15-21
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
今年はこのようにして元旦に共に集まり、讃美と祈りを献げることをもって新しい1年の歩みを始めることができます。本当に嬉しいことです。心から感謝と讃美をお献げしたいと思います。
今日の、主イエス命名の日は、イエス様が割礼を受けて、イエスと名付けられた祝日ということになっています。今更、皆さんに割礼とは何かを説明する必要はないかもしれませんが、割礼というのは男の子のオチンチンの先っぽの皮を切り落とすことです。
「新年早々、そんな話をされても、一体どんな反応をしたらいいの?」という困惑のお気持ちはよ~くわかります。ところが困ったことに、この割礼というのは、イエス様の時代のユダヤ教にとって(も)、非常に重要な ‘initiation’ の儀礼と見做されていました。‘Initiation’ というのは、新しい人を、共同体のメンバーに迎える儀式のことです。
旧約聖書の創世記 17:10-11で、神様はアブラハムにこう命じます。
「10 あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。11 包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる。」
このアブラハムに対する命令は、新しく生まれる男子を「神の選びの民」の一員として迎えるための絶対不可欠な条件となり、割礼を受けていない男は、選びの民から除外されました(創世記 17:14) しかし、なぜ割礼にこれほどの「意味」と「重要性」が与えられることになったのかは、イマイチよくわかりません。
数日前、140年前に発見されたアメンホテプ一世のミイラから、マスクと包帯を「取り除いて」、これまで知られていなかった身体的特徴が解明されたことが報道されました。アメンホテプ一世は、紀元前1525年から1504年までエジプトを治めたファラオ、王様です。
ちなみに、ミイラのマスクと包帯を「取り除いた」と言いましたが、実際にマスクと包帯を外したわけではありません。高精度CTスキャンによって、マスクと包帯の下に隠れた姿を明らかにすることに成功したのです。
アゴは小さく、鼻も細く小さく、上の前歯は出っ歯で、髪の毛は巻毛、父親で第18王朝のファラオ、イアフメス一世と顔の特徴が良く似ています。身長は169cm、亡くなったのは恐らく35歳くらいの時で、外傷がないことから、感染性の病気かウィルスが原因で死亡したと見られます。そして、なんと、このアメンホテプ一世も割礼を受けていました。
実は、割礼は古代エジプトでも広く行われており、その「習慣」は、現代に至るまでエジプトに残っています。さらに、割礼の習慣は、ほぼアフリカ全土にあります。驚いたことに、WHOの報告によれば、世界の全男性人口の約30%は割礼を受けており、2006年の時点で、その数は6億6,500万にもなるのそうです。
このように、「割礼」という行為が、世界中で古くから行われてきたことを考えると、「割礼を受けたらお前たちを受け入れてやろう」と神様が言ったとは、どうも思えません。世界で最も古くから行われてきた外科手術を、イスラエル民族に迎え入れる儀礼としたのは、神様ではなく人間でしょう。
では教会はというと、割礼に代えて、洗礼を新たなメンバーを迎えるための入信儀礼としました。そこで「キリスト教と割礼は無関係になった」ということになりそうなのですが、実は教会の歴史の中で、洗礼は割礼と結び付けて語られるようになりました。それは、幼児洗礼を正当化するためです。
1世紀の教会に幼児洗礼はありません。そもそも、使徒たちの時代の教会は、イエス様がすぐに帰ってくるはずだと思っていたので、結婚にも、子育てにも、ほとんど関心がありませんでした。ところが待てど暮らせどイエス様が帰って来なかったので、教会時代は長くなり、人々は「普通の生活」に戻りました。結婚し、生まれてきた子どもを育て、家庭を支えるという営みが戻ってきたのです。それでも、教会の入信儀礼、洗礼は、悔い改めて求道者生活をし、信仰ついて学んで理解できる年齢に達した者に限定されていました。
ところが2世紀の後半になると、教会の歴史の中に幼児洗礼の記録が現れ始めます。信仰について学ぶことも、求道生活もできない子どもに洗礼を授けようとしたのには、それなりの理由があります。
2世紀になると、「洗礼を受けないで死んだ者は救われない」という話が大きな力を持ち始めます。医療の発達していない時代、乳幼児の死亡率は高く、多くのクリスチャンの夫婦が、先立つ我が子を葬る悲しみを味わったことでしょう。「洗礼を受けずに死ねば、この子は地獄に堕ちてしまう。」それは、残酷で、絶望的な宣告です。「死にゆく子どもに洗礼を授けてほしい」という願いが出てきても、不思議ではありません。
こうして、我が子を葬らなければならないクリスチャン夫婦を絶望させないために、幼児洗礼という「禁じ手」が打たれるようになったのです。
しかし、幼児洗礼は、回心し、求道生活をし、十分な準備の時を経て洗礼を授けるという教会の常識と相容れませんでした。「これまでの当たり前」を破って行われる新たな試みは、大きな論争を呼びました。しかし、「洗礼を受けずに死ぬ者は救われない」という話が支配的になれば、「滅びを避けるために洗礼を授けちゃった方がいい」という判断に傾くのも無理なからぬことです。
そこで、この「禁じ手」を正当化するために用いられたのが、洗礼を割礼に結びつけることでした。割礼は、古い契約の民、イスラエルに、新しいメンバーを迎える儀礼であった。教会は新しい契約の民、新しいイスラエルであり、これに迎え入れる入信儀礼は洗礼だ。割礼は生まれて8日目の子どもに施された。それならば、新しい契約の民の中にメンバーを迎え入れる洗礼を、子どもに授けても良いはずだ。
こうして幼児洗礼は正当化され、教会の「正統な営み」に加えられました。もちろん、割礼と洗礼を結びつけることには、かなりの無理があります。割礼は男子にしか授けられないのに対して、洗礼は男性にも女性にも授けられます。イスラエルは血縁に基づく民ですが、教会は血縁によらない神の家族です。割礼は罪の赦しと無関係ですが、洗礼はバプテスマのヨハネの時から、罪の赦しと結び付けられています。割礼と洗礼は、どう考えても並行関係にはありません。
ここに見てとれるのは、「神学」の議論は往々にして、想定外の状況に直面して、教会がすでに始めてしまったことを、事後的に正当化するために展開される、ということです。
私はここで、「神学」という営みを卑下したいわけではありません。むしろ、幼児洗礼という禁じ手に打って出た2世紀の教会のように、私たち聖マーガレット教会も、「新しいこと」を始められる教会になることを願っているのです。
信仰共同体の歩みは、どこに行くのか、どのような困難に直面し、どのような変化を迫られるのか分からない歩みです。しかし聖霊に導かれて、「新しいこと」に踏み出したなら、神様はその歩みを祝福してくださり、教会は喜びに溢れた新しい命に生かされます。
イエス・キリストの光に照らされながら、聖霊に導かれて、新しい1年の信仰の歩みを続けて行きましょう。
明けましておめでとうございます。