降誕後第2主日・顕現日 説教

2022年1月2日(日) 降誕後第2主日・顕現日

今日は降臨節第2主日ですが、典礼暦の原則によって、1月1日の直後の主日を顕現日の礼拝として献げても良いことになっています。教会の暦には無数の祝日がありますが、4世紀以前にまでその起源を遡れるものは殆どありません。しかし顕現日は、4世紀以前にその起源を遡ることができる、数少ない祝日の一つだと言われています。

顕現日は英語で ‘Epiphany’ と言われますが、語源はギリシア語の ‘epiphanein’ です。これは「顕す」という意味の言葉です。非常に大雑把に言えば、顕現日は、「イエス・キリストの栄光が顕された」ことを祝う日ということになります。しかし、「福音書に描かれている出来事の中で、どれが最もキリストの栄光を顕しているのか」という質問は、ほとんど答えようのない質問です。

1月6日にEpiphanyを祝っていたという最も古い記録とされているのは、2世紀前半のものです。この最も古い顕現日の記録によれば、グノーシス系の異端とされる、バシリディアス派の人々が、1月6日にイエス様の洗礼のお祝いをしていました。

いわゆる正統的教会の顕現日に関する記録は、そこから約200年以上経たないと出てきません。しかも、顕現日にお祝いする内容は、教会ごとにまったく違っていました。ある教会はイエス・キリストの誕生を祝い、ある教会は東方の占星術士たちがイエス様を礼拝したことを祝い、ある教会はイエス様の洗礼を祝い、そしてある教会は5千人の給食の奇跡を祝いました。

その上、「顕現日」のお祝いをしている教会が「あった」ということは、全ての教会が顕現日を祝っていたということも、多くの教会がそれを祝っていたということも意味しません。ここには、私たちの目から隠されている、非常に重要な問題があります。

普段、ほとんど意識することはないかもしれませんが、カレンダーというものは、私たちの生活にリズムを与えるだけではなく、私たちの生活を支配するものでもあります。暦は私たちに、いつ働き、いつ休み、そして、いつ、何を「祝え」と命じるのです。そのようにカレンダーが私たちに命じることができるのはなぜでしょうか?

それは、暦は常に、権力者によって制定されるからです。教会の祝日が、4世紀以降に爆発的に増えたという歴史的事実は、4世紀以降に教会と世俗権力が密接に結びついたことを物語っています。つまり、教会暦というものの存在は、教会の営みの中心に、ナザレのイエスの生き方と、彼の宣べ伝えた神の国と相容れない何かがあるということを告発してもいるのです。

イエス・キリストはカレンダーを制定する権力も持っていなかったし、そんなことを意図したこともありませんでした。ですから、教会暦というものの存在は、教会の罪を告発してもいるのです。

4世紀以前には、「全教会」が揃ってお祝いをしている祝日というのは、恐らく存在していませんでした。教会はイエス・キリストの弟子集団であり、教会はキリストの栄光を顕すために存在しているとさえ言えます。しかし、敢えて皮肉を言わせていただけば、私たちが毎年忠実に顕現日の礼拝を献げたとしても、それがイエス・キリストに栄光を帰すことになるとは、私には思えません。

私たちが本当にキリストの栄光を顕すことができるとすれば、それは、イエス・キリストの神の国のヴィジョンにコミットすることを通してです。そして、そのようにイエス・キリストの栄光を顕した、偉大なアングリカンのクリスチャンがいます。いえ、いました。

先週の日曜日、12月26日に90歳で主のもとに召された、デズモンド・トゥトゥ (Desmond Tutu) 大主教です。

デズモンド・トゥトゥは、1931年10月7日、南アフリカのクラークスドロップというところに生まれました。大学の医学部に合格したものの、学費を払うことができないため、教師になるための職業訓練カレッジに進み、卒業後、高校の教師として働き始めました。しかし彼が教員として働き始めて3年後の1953年に、バントゥ教育法という法律が制定され、大学まで含めて、すべての教育機関を、人種別に分離することが命じられました。

デズモンド・トゥトゥは「腐敗した教育システム」への抵抗として職を辞し、南アフリカ聖公会で教役者として働く道へと進みます。彼は、アパルトヘイトをナチズムになぞらえ、徹底的な批判を展開します。

日本ではほとんど知られていませんが、アパルトヘイトはオランダ改革派教会の神学が生み出し、そして支えた、邪悪な統治制度です。アパルトヘイトを生み出したのは教会であり、キリスト教なのです。そして民主主義を標榜する西洋諸国の多くが、その邪悪な統治体制と協力し、あるいは黙認しました。

しかしデズモンド・トゥトゥは、イエス・キリストの神の国のヴィジョンに基づいて、腐敗と不正義に反して声を上げることを厭いませんでした。こうして彼は、「南アフリカの道徳的羅針盤」と呼ばれるようになりました。

1984年にノーベル平和賞を受賞した後、デズモンド・トゥトゥはヨハネスブルク主教に選ばれます。さらに2年後の1986年には、南アフリカ聖公会最高の職位であるケープタウン大主教に選出され、1996年までこの務めを果たしました。デズモンド・トゥトゥは、ヨハネスブルク主教、ケープタウン大主教を務める、最初のアフリカ系の教役者でした。

1994年にアパルトヘイト体制が崩壊し、初の民主的選挙によってネルソン・マンデラが大統領に選ばれます。マンデラ大統領は、アパルトヘイト体制下で行われた犯罪行為を究明し、和解への道筋を整えるために、「真実と和解委員会」 (Truth and Reconciliation Committee) を立ち上げ、トゥトゥ大主教をその議長に選出しました。

「真実と和解委員会」の中で、アパルトヘイト体制のもとでなされた数々の残虐な犯罪行為が語られると、トゥトゥ大主教は度々泣き崩れました。

あるインタヴューの中で、彼はこう証言しています。「真実は衝撃を与え、真実は私たちの心を挫きます。そして、ゆるすことは決して簡単なことではありません。和解することは容易ではありません。それは安上がりではありません。和解は、神が御子の死という代価を払うことまで要求するのです。」

ゆるすことについて、彼はこうも語ります。「私には報復の権利があります。しかし私がその報復の権利を放棄する時、私はあなたに、新しいスタートを切るチャンスを与えるのです。」

トゥトゥ大主教は、白人によって行われる悪にだけ声を上げたのではありませんでした。彼はアフリカ人の悪をも、徹底的に批判しました。アパルトヘイト解体後に政権についたアフリカ民族会議 (ANC [African National Congress]) の政治家たちは、汚職にまみれ、その腐敗ぶりは凄まじいものでした。

トゥトゥ大主教は、彼らをも真っ向から批判して声を上げます。「愛を持って言おう。我々はアパルトヘイト体制の崩壊を祈った。次は、アフリカ民族会議政権の敗北を祈る日が来るだろう。あなたたちは恥ずべき者たちだ。」

彼は常に、イエス・キリストの神の国のヴィジョンに基づいて、正義と平和と公正と抑圧された者たちの権利を守るために発言し、行動しました。しかしデズモンド・トゥトゥ大主教は、決して自分の正義を振りかざすような男ではありませんでした。彼はあるインタヴューの中で、自分が世を去った後、どのような人物として人々に記憶してほしいかと尋ねられて、こう答えています。

「『彼は愛した。彼は笑った。彼は泣いた。彼はゆるされた。彼はゆるした。』そのように私のことを思い出してほしい。」

彼の生き方には、私たちが、どのようにして、イエス・キリストに栄光を帰すべきかが現されています。

願わくは、デズモンド・トゥトゥ大主教を導いた聖霊が、私たちをも、神の国のヴィジョンによって生き、キリストの栄光を顕す者としてくださいますように。