
2022年1月16日(日) 顕現後第2主日
イザヤ 62:1-5, Iコリント 12:1-11, ヨハネ 2:1-11
今朝の福音書朗読は、有名な「カナの婚礼」の箇所です。これは、マタイ、マルコ、ルカ福音書には無い、ヨハネ福音書独自のエピソードです。
そしてヨハネ福音書の著者は、このパーティーの場面で、イエス様は「最初のしるし」を行い、ご自分の栄光を現したと言います。
私自身は特別パーティー好きというわけでもないですし、パーティーに呼ばれる機会というのも、そうそう多くはありません。それでも、たまには何らかのパーティーの場に居合わせることがあります。呼ばれて、行ってみて、「来てよかった」と思うパーティーもあれば、「来るんじゃなかった」と思うようなこともあります。
パーティーが「喜びに溢れた素晴らしい時」になるか、残念なものになるかを決める要因は、大きく二つあると言えるでしょう。
一つは、そこに招かれているゲストです。初対面の人が多かろうと、顔見知りが多かろうと、「話が弾む」ような人たちがいれば、パーティーに期待する喜びの半分は満たされたと言えるでしょう。そしてもう一つの要因は、食事と飲み物です。
私は、話が盛り上がると、食べることも、飲むことも忘れてしまいます。そのため、大抵はみんなから出遅れて、食べるものと飲み物を取りに行くことになります。ところが、自分が取りに行った頃には、食べ物も飲み物もほとんど残っていなかったという経験を、何度かしたことがあります。
そのときには非常にガッカリします。殆ど何も食べられず、飲めもせず、空腹のままパーティー会場を後にするときの虚しさは、何とも言い難いものがあります。
イエス様の時代、結婚披露宴は、通常、1週間に渡って続きました。そして花婿の家族にとって、ゲストが望むだけの食事とワインを用意することは、最重要課題でした。
イスラエルは典型的な「栄誉を重んじる社会」です。とにかくメンツを気にします。ぶどう酒は喜びの象徴ですが、パーティーの最中にそれが「足りなく」なることは、パーティーの主催者にとって最も恐るべき、最悪の出来事です。
それが結婚披露宴の場で起きようものなら、新カップルも、その家族も笑い者となり、屈辱的出来事は、そう簡単に忘れ去られることはありません。
そのような危機的な状況が迫っていることに気づいて、イエス様の母が助けを求めました。私がここで「マリア」と言わずに、「イエス様の母」と言ったのは、ヨハネ福音書の中に「マリア」の名が一度も出てこないからです。
そして「ぶどう酒が足りない!」という母の言葉に対するイエス様の反応は、驚くほど冷たいものでした。新共同訳では「婦人よ」となっていますが、実際にはそんな丁寧な言い回しではありません。
「女よ、(それが)私とあなたにとって何だというのだ。」この方がギリシア語のニュアンスに近いはずです。
そしてイエス様は、母に向かって不思議な宣言をします。「わたしの時はまだ来ていません。」
「わたしの時」というのは、イエス様の栄光が完全に現されるときですが、それはヨハネ福音書によれば、イエス様が十字架につけられる時です。
十字架がキリストの栄光となるのは、それが「死を超える命の充満」となるからです。
結婚披露宴の真っ只中で、ぶどう酒が尽きようとしているときに、イエス様が水をぶどう酒に変えた。これが最初のしるしとなり、キリストの栄光が最初に現されるときとなったのは、それが「死を超える命の充満」の先取りだからです。
カナの婚宴の場で、ぶどう酒がなくなりそうになった時、イエス様は欠けを補ったのでも、必要を満たしたのでもありません。イエス様が提供したのは、まったくの「過剰」であり、「いきすぎ」であり、「やりすぎ」です。
そもそも結婚披露宴の主催者である花婿家族は、決して貧しい人たちではありません。家には召使いがいて、巨大で高価な石の水瓶を6つも保有している、非常に豊かな人たちです。
そして、イエス様がこのパーティーのために提供した莫大な量のワインは、ゲストが飲み切れるようなものではありません。
ぶどう酒が無くなるというからには、披露宴はすでに三日目か四日目に突入していたはずです。石の水瓶の一つ一つには80リットルから120リットルの水が満たされました。それが6つあったわけですから、総量は520リットルから680リットルにもなります。
さらに、イエス様が提供したものは1本7、800円の「手軽でおいしい」ワインではありません。1945年ものの Château Lafitte に並ぶ、最高級ワインです。
「最初のしるし」に表されているのは「贅沢」と「有り余るほどの豊かさ」なのです。このことは「宴会の世話役」の言葉にも表されています。
「宴会の世話役」の言う通り、通常は良いワインを先に出します。酔っ払えば脳機能は低下し、味覚も、嗅覚も弱まります。三日も四日も飲み続けた酔っ払い相手に、良いワインを出すなどということは、まったく馬鹿げた行為です。
「宴会の世話役」は、「良いぶどう酒を今まで取っておいた」といって、花婿を賞賛しているのではありません。「誰だって最初に良いワインを出して、酔いが回ったら安物を出すのに、何だってあんたはここに至るまで良いワインを出さずに取っておくなんて馬鹿なことをしたんだ!」そう言って呆れているのです。
繰り返しますが、「最初のしるし」がもたらしたものは、「贅沢」と「有り余るほどの豊かさ」です。それは「命をとことんまで喜び、楽しむこと」を表しており、キリストの十字架を通して現れる「死を超える命の充満」と結びついています。
イエス様の時代のユダヤ教指導者は、学派毎に違いはあっても、皆、「古いものほど良い」と考える「伝統主義者」です。黄金時代は常に、出エジプトの時代や、ダビデ・ソロモン王時代の統一王朝といった、「過去」に見出されます。
それに対して、イエス・キリストは伝統の破壊者です。彼は黄金時代を過去に見ようとはしません。「命の充満」、「喜びに満ち溢れる祝宴」は、未来に現れるものです。
イエス・キリストが用意した新しいワインは、古いぶどう酒に圧倒的に勝る高級ワインでした。そして教会の使命は、未来の「命の充満」を先取りすることです。「すべての人が招かれて、心ゆくまで食べ、飲み、喜ぶ」パーティーを先取りすることです。
キリストによって招かれるパーティーの場では、血縁はまったくモノを言いません。イエス・キリストの母であろうと、このパーティーの中で、特別なポジションを与えられることはありません。
喜びをもたらす素晴らしいぶどう酒が、「どこから来たのか」知っていたのは、イエス様の言葉に従って水を汲み、「宴会の世話役」のところに運んで行った、「給仕たち」だけでした。
キェルケゴールは、カナの婚礼の出来事を皮肉って、こんな風に言ったそうです。「キリストは水をワインに変えたが、教会はさらに困難なことを成し遂げることに成功した。教会はワインを水に変えたのだ。」
願わくは、聖マーガレット教会が、「命の充満」を先取りするコミュニティー、「すべての人が招かれ、心ゆくまで食べ、飲み、喜ぶ」、祝宴共同体へと変えられますように。