顕現後第4主日 牧師説教

2022年1月30日(日)顕現後第4主日 エレミヤ1:4-10; Iコリント14:12-20; ルカ4:21-32

本日の福音書朗読の最初の節、ルカによる福音書の4章21節は、先週の福音書朗読で最後に読まれた節です。恐らく、今週の朗読箇所が先週の物語の続きであることを示すために、そのようになっているのでしょう。

イエス様の宣教活動はガリラヤから始まります。23節に名前の出てきたカファルナウムは、ガリラヤ湖という湖の北端の、やや西に位置する町で、イエス様はここに宣教拠点を構えました。イエス様はそこで多くの悪霊を追い出し、多くの人の病を癒しました。有名な、百人隊長の僕の癒しも、カファルナウムで行われました。

ところが、ルカ福音書のストーリー展開の中で、イエス様がカファルナウムに初めて入るのは、4章31節でのことです。カファルナウムでの悪霊追放や病の癒しの話は、4章33節以降にならないと出てきません。百人隊長の僕の癒しが出てくるのは7章でのことです。ルカ福音書の読者、あるいはその朗読を聞いている人たちは、4章23節の段階では、イエス様がカファルナウムで何をしたのか全く告げられていません。

それにも関わらず、「あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」という話が出てくるのはなぜでしょうか?それは、4章16節から30節の物語に、ルカ福音書と、その続編にあたる使徒言行録の全体を通して語られることが圧縮されているからです。

イエス様がガリラヤで宣教活動を始めた時、人々は神の国の言葉を喜んで聞き、力ある業に驚きました。イエス様が、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語るのを聞いた人々は、「この人はイスラエルを解放するメシアかもしれない」と思いました。メシアを待ち望むユダヤ人にとっては、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由になる「主の恵みの年」は、神が報復される時でした。憎き敵どもが蹴散らされ、滅ぼされる時こそ、イスラエルの民が待ち望む慰めの時でした。

しかしイエス様は、メシアに対する人々の「期待」をすべて否定します。それどころか、神の憐れみと、恵みと、祝福はイスラエルの民には与えられず、ユダヤ人の「敵」の上にこそ注がれると宣言します。

大預言者エリヤが遣わされたサレプタのやもめも、エリヤの後継者エリシャによって「きよく」されたナアマンも、イスラエルの敵である異邦人です。メシアを待ち望むユダヤ人は誰も、自分たちの敵が、神の憐れみや祝福を受けるとは思っていませんでした。なぜなら、神が恵みと祝福を注ぐのは、神の掟に従って、聖い生活をするユダヤ人だけで、神の掟を知らない異邦人は、神に呪われ、滅ぼされる存在だと信じていたからです。

イエス様が「実現した」と宣言した「自由」と「解放」は、弟子たちを含め、ユダヤ人の誰にも理解されず、誰にも受け入れられないほどに、人々の期待から逸脱していました。あまりにも人々の期待から外れているが故に、イエス様は大部分のユダヤ人に拒絶され、十字架にかけられて殺されることになりました。神の民が、自分たちのために遣わされた救い主を拒絶し、イエス・キリストを十字架にかけて殺した。それは悲劇以外の何ものでもありません。

さらに、復活のキリストが弟子たちに現れ、弟子たちを通して福音が述べ伝えられるようになった後も、ユダヤ人の大部分は、ナザレのイエスをメシアとして受け入れることはありませんでした。それもまた悲しむべきことです。

しかしパウロが語るように、神の民、イスラエルによるイエス・キリストの拒絶は、異邦人にとっての祝福となりました。なぜなら、ユダヤ人による拒絶の結果として、血縁主義が、民族主義が破られ、境界線が乗り越えられたからです。神の民による拒絶の結果として、神の恵みと祝福が、境界線を越えて溢れ出したからこそ、教会は世界中に広がったのです。

しかし神の民イスラエルの拒絶の結果として、自由と解放の恵みに与ることになった教会も、イスラエルの人たちと同じ過ちに陥りました。「新しい神の民」と自負するようになった教会も、自分たちだけが神の憐れみと、恵みと、祝福を受ける存在だと考えるようになったのです。

使徒たちの直後の時代から、多くのクリスチャンたちが、イエス・キリストを受け入れなかったユダヤ人は神に滅ぼされると考えるようになりました。それはさらに「発展」して、「教会の外に救いはない」と宣言されるに至ります(キュプリアヌス)。教会は、イエス・キリストが与える自由と解放が、古い神の民が知っている「神の道」からも、「神の掟」からも「逸脱」し、古い神の民に拒絶されることで「実現」したことを忘れたのです。

そして、「古い神の民」と同じように、「新しい神の民」である教会も、自分たちの期待から外れ、自分たちに馴染みの、「祝福された者」と「呪われた者」との基準を逸脱して溢れ出す神の憐れみと、恵みと、祝福を否定するようになったわけです。

この日の福音書から私たちが学ぶべきことは、「神の憐れみと、恵みと、祝福を独占する民族やグループは存在しない」ということではないでしょうか。

聖公会という教会の中でも、つい半世紀前までは、ほとんどの教会が、女性が主教になることは愚か、女性が執事になることも、司祭になることも、教会の伝統に反するというだけではなく、「神の掟」に逆らうことだと考えていました。現在は、多くの教会が、女性の執事も、司祭も、そして主教も受け入れるようになった一方、そのような変化は、神の御心に逆らうことだと信じる教会もあります。

今年の7月26日から8月8日まで、2020年に予定されていながら、コロナ禍のために延期となったランベス会議が開催されますが、今回のランベス会議を最後に、世界の聖公会の分裂は決定的になるだろうと言われています。教会が分裂することは、悲しむべきことです。そこに喜ばしいことは何もありません。

しかし、イエス・キリストによって実現した解放と自由の恵みと祝福は、「神の掟」からの逸脱と、「古い神の民」の拒絶によって、境界線を越えて溢れ出して、私たちのもとにもたらされた。そのことを考えると、教会の分裂をもたらすようなところには、祝福も恵みもないとは言えないのではないかと思うのです。むしろ、根本的に「新しい何か」が始まるときには、これまでの様々な「当たり前」が変わってしまうことへの抵抗も、避け難い分裂もあるでしょう。

今後、教会はこれまで以上に劇的な変化を経験していくはずです。信徒の役割はますます拡大し、他宗教の人々との協力が進み、これまでの「普通」や「当たり前」のカテゴリーに収まらない人々が、教会に新たな恵みと祝福をもたらしてくれることになるでしょう。

そのような「新たな解放の時」、新しい祝福の時に向けて、イエス・キリストが遣わされた助け手なる聖霊が、私たちを整えてくださいますように。そして、神は私たちの期待に逆らい、私たちにとっての「当たり前」からの逸脱を通して、新たな「解放」を、祝福をもたらしてくださる方であることを思い起こさせてくださいますように。