顕現後第5主日 説教

2022年2月6日(日)顕現後第5主日 士師記6:11-24a; Iコリント15:1-11; ルカ5:1-11

今日の福音書朗読は、漁師のシモン・ペトロとゼベタイの子ヤコブとヨハネが、彼らの生活を支えているビジネスをほっぽり出して、イエス様と共に旅を始める有名なエピソードです。

実は、このルカ福音書の5章1節から11節の物語と非常に似ている物語が、ヨハネの福音書の21章1節から14節にあります。今日のルカ福音書の物語がイエス様の宣教活動の最初の頃に位置付けられているのに対して、ヨハネ福音書の方の物語は、イエス様の復活後の出来事として描かれています。

シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、さらに二人の弟子たちがティベリアス湖(ガリラヤ湖)で漁に出ます。しかし、何もとれません。夜明けごろ、復活したイエス様が湖の岸辺に現れ、弟子たちに「何か食べる物があるか」と尋ねます。彼らが、「ありません」と答えると、イエス様は「舟の右側に網を打ちなさい」と弟子たちに命じます。この時点では、弟子たちは、自分たちに話しかけている男が誰なのかわかっていません。しかし、イエス様の言葉に従って網を降ろすと、網が破れそうになるほど沢山の魚がかかり、その時、弟子たちの目が開かれて、復活の主だと気づきます。

ルカ福音書の5章1節から11節の物語とヨハネの福音書の21章1節から14節の物語は、細かいところで違いはありますが、登場人物も、物語の内容も非常に似ています。どちらの物語にも、シモン・ペトロとゼベダイの二人の子たちが登場します。どちらの物語の中でも、ペトロはイエス様に次ぐ、重要な位置を与えられています。どちらの物語においても、シモン・ペトロとその仲間の漁師たちの夜通しの漁は、何もとれずに徒労に終わります。そこにイエス様が現れ、絶対に魚が取れないような時間帯であるにもかかわらず、網を降ろすようにと弟子たちに命じます。弟子たちはイエス様の言葉に従って、網を降ろします。すると予想外の大漁となります。

そして何よりも、この二つの物語は、担っている機能がまったく同じです。どちらの物語も、「顕現の瞬間」、Epiphany Momentを描いているのです。それは、予想外の大漁に見舞われた弟子たちが驚きに満たされ、「漁をしなさい」と命じた人物に対する認識が全く新たにされる瞬間です。

この二つの物語は、そこに描かれている出来事を通して、イエス・キリストのアイデンティティーが、神の独り子としての栄光が、そこに居合わせた者たちに対して現れ、彼らのコミットメントを呼び起こしたことを語っているのです。

今朝の福音書朗読とほとんど同じ物語が、ヨハネ福音書では復活のキリストが現れる文脈に置かれている。ここに、イエス・キリストを通して神が与えられる恵みの特徴が、非常に鮮やかに現されていると私は感じました。それはどういうことかと言いますと、神様がイエス・キリストを通して与えられる恵みと祝福は、「今までしたこともないような何か」をするときに、想定外のものとして現れるということです。

私たち人間が変化を恐れるのは、「これまで通りのこと」から、「今までやってきたこと」から外れることは、「失うことだ」と思うからです。「失う」ことを恐れているものは、「安定」であったり、「豊かさ」であったりするわけですが、恐れによって私たちは、「ずっとやってきたこと」の中にしか恵みと祝福を見られなくなります。そうして私たちは、「今」がうまくいかなくなればなるほど、メランコリックに、懐古主義的になって、「昔は良かった」と思うようになります。そして、「過去の栄光」の復活を求めます。

イエス様に対する希望が砕け散った後、シモン・ペトロをはじめとする元漁師たちが、かつて成功を収めた道へと戻って行ったのは、人間として当たり前のことでしょう。しかし、彼らが昔の成功を再現しようとしても、それはうまくいきませんでした。かつての成功を追い求めるところに、神様の恵みと祝福は現れなかったのです。

夜が明けた後に網を下ろす漁師などいません。魚にとっての宿敵である鳥たちが活動しない真夜中から明け方にかけて、魚は餌を求めて水面近くに上がってきます。漁をするのはその時です。ところがイエス様は、漁師たちがそれまでやったこともなければ、考えたこともないような、馬鹿げたことを命じたのです。「網を降ろして、漁をしろ」と。そして、イエス様の言葉に従って、「今まで考えたこともない」ことをしたところで、予想外で、非常識で、とんでもない恵みと祝福が現れました。そのとき、漁師たちの目は開かれました。イエス・キリストの本当の姿を知るようになりました。そして、この方と旅を続ける力が与えられたのでした。

きっと、今朝私たちが聴いた物語のように劇的なことは、私たちの人生には起こらないでしょう。けれども、予想外の恵みと祝福が注がれ、イエス・キリストの栄光を垣間見る「顕現の瞬間」は、私たち一人ひとりの人生の中にも必ず訪れます。今日は私自身が経験した、「顕現の瞬間」を分かち合って、この説教を閉じさせていただきます。

今日は2022年の2月6日ですが、この日は私にとって、少々特別な日です。私たち家族がスコットランドのアバディーンから日本に戻ったのは2017年の1月末でした。しかし、聖マーガレット教会で私が勤務を開始したのは、5年前のこの日、2月6日でした。ですから、私が聖マーガレット教会で働き始めて、今日で丸5年となります。

帰国の時が迫る中、私たち夫婦の間には悲壮感が漂っていました。帰国の直前まで、私たちの行き先がどこになるのか知らされませんでした。2017年の12月も半ばを過ぎようとしていた頃だと思うのですが、聖マーガレット教会での勤務となると知らされました。しかし、皆さんが私のことを知らなかったように、私も聖マーガレット教会のことを何も知りませんでした。東京で私たちを待ち受けているものは、終わることのない大きな苦難であり、忍耐をもって耐え忍ぶしかない。そう思っていました。

しかし、私たちの予想は裏切られました。聖マーガレット教会は、スルメイカみたいな教会です。「こんな賜物を持った人がいるのか!」とか、「全然目立たないけれども、こんなに忠実に仕えている人がいるのか!」とか、「宣教に対するこんな熱意をもっている方がいたのか!」とか、それはもう、新たな発見と驚きの連続でした。マーガレット教会での5年間は、私たち夫婦にとってだけではなく、子どもたちにとっても、予想外の祝福と喜びに溢れた「顕現の瞬間」となりました。私たちは度々、「神様をみくびって、東京で待っているのは苦しみだけだ」と考えたことを悔い改めます。そして、私たちの思いをはるかに超える恵みと祝福を与えてくださる神様に、感謝の祈りをささげます。

正直なところ、マーガレットで働き始めて5年も経ったという実感は、私にはありません。まだ2年半くらいしか経っていないような気がします。退屈な時間は長く感じます。悩みの中にいる時間や苦しい時間も、終わりがないのではないかと思うほど長く感じられるものです。しかし、私が聖マーガレット教会で働き始めてから、実際に過ぎ去った時間の半分くらいしか経っていないような感じがするのは、ここで、神様から豊かな恵みと祝福を受けてきたからだと思います。私たちを受け入れ、祈り、支えてくださっていることに、心から感謝いたします。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

予想外の恵みと祝福とが溢れる顕現の瞬間、Epiphany Momentが、お一人お一人の歩みの中にますます豊かに訪れますように。そして、主イエス・キリストへの期待と信頼が、ますます強められますように。