顕現後第7主日 説教

2022年2月20日(日)顕現後第7主日

創世記45:3-11, 21-28; Iコリント15:35-38, 42-50; ルカ6:27-38

今日の福音書朗読の箇所は、非常に危険な、細心の注意をもって取り扱われるべき箇所です。

「29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。」

この言葉は「敵を愛せよ」という言葉とセットになって、キリスト教信仰の特異性を表すものとして、教会の外でもよく知られています。ほぼ同じ内容の教えがマタイ福音書にもありますが、ルカ福音書の著者の卓越した修辞学的技巧によって、この箇所はマタイの並行箇所よりも、はるかに危険なものになっています。

今朝、真っ先に皆さんに覚えていただきたいことは、この箇所は暴力を正当化しているのではないということです。

イエス様は十字架にかけられる前、捕られられて大祭司のもとに引き出されました。そのとき、神殿の警護や管理に携わる役人の一人が、イエス様を平手打ちにしたことがヨハネ福音書に記されています。しかしイエス様はそのとき、「わたしの反対の頬も打つがいい」とは言いませんでした。

「23 何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか。(ヨハネ18:23)」こう言って、イエス様は自分を殴った役人を非難しています。

夫のDVに苦しむ女性に向かって、「イエス様は『右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい』『敵を愛しなさい』『赦しなさい』と言われているでしょう。だからあなたも赦してあげなさい」などと、絶対にアドヴァイスしてはいけません。

「学校でわたしのことをぶつ子がいるの」と子どもが言ってきたら、「そう言う時には、イエス様が仰っているように、『もっとぶっていいよって』いいなさい」などと言ってもなりません。絶対にダメです。

「29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。」「30 あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。」

これらの言葉は、額面通りに、文字通りに受け取るべきものではありません。これらの言葉は、「何かがおかしい」と思わせることによって、私たちの「当たり前」を揺り動かし、新しいモノの見方、新しい考え方を可能にするための、修辞学的技法です。

クリスチャンという生き方は、悪意に運命を任せることではありません。

虐待に苦しむ子どもを、虐待を加える親から直ちに引き離さなくてはなりません。DVを加える男から、女性を引き離さなくてはなりません。暴力を目にしたとき、見ないふりをしないでください。泣き叫ぶ子どもの声を聞いたとき、聞こえないふりをしないでください。すぐにどうしていいかわからない時でも、知らないふりをしないでください。

未来の報いを口実にして、現在の不正から目を逸したり、ましてや不正義を正当化するようなことは、絶対にあってはなりません。

「自分を守り、自分の愛する者たちを守る」ことは重要なことです。では、今朝の福音書の言葉が暴力を正当化するものでも、被害者をスケープゴートにして加害者を無罪放免にするものでもないとすれば、「敵を愛せよ」という極めて過激なイエス様の教えの真意はどこにあるのでしょうか。

それは、「私たち」の中に入らないと思われていた者を、「私たち」の中の一人として考えるということです。愛と憐れみの対象にならないと思われていた者を、愛と憐れみの対象にするようにということです。

イエス様の時代、報復は美徳であり、「敵」は「憎むべき存在」であり、「裁く」ことは誰が愛と憐れみの対象となり、誰が憎むべき存在であるかを識別するための重要なプロセスでした。

例えば、イエス様の時代のユダヤ人にとって、サマリア人は敵であり、「憎むべき者」でした。「憎むべき者」であるということは、愛の対象にも、憐れみの対象にもならないということです。

このような行動原理は、ある特定の「神理解」と結びついています。「敵」が憎むべき存在であるのは、神がその者を憎んでいるからです。「私」の「敵」は、神の敵であるが故に敵なのです。報復が美徳であるのは、「私」が滅ぼす相手は「神に逆らう者」であり、神がその者の滅びを喜ばれるからです。「憎むべき者」を愛してはならないのは、憎むべき者を愛すると、自分が神の敵となり、神に憎まれることになるからです。

ここで私たちは立ち止まり、考えるべきです。イエス様も、私たちに、立ち止まり、考え直すように求めています。

逆らう者に怒りを燃やして滅ぼし、従順な者に祝福を与える神のイメージは、嫉妬深く、報復を追い求め、敵の破滅を喜ぶ私たち自身の自己投映に過ぎないのではないでしょうか?それはつまり、私たち自身の中に深く刻み込まれた思考パターンや行動パターンが、神の姿として現れているということです。そしてイエス・キリストは、私たちの考え方と、私たちの行動パターンの投映に過ぎない神の姿に挑戦し、乗り越えようとしているのです。

敵が滅びる時、私たちは喜びを感じます。ハリウッド映画の悪役が、最後は必ず敗者となり、ハリー・ポッターのヴォルデモートが滅びるのは、私たちは「憎むべき者」が破滅する時、喜びを感じるからです。

しかし、イエス・キリストが「アッバ」と呼んだ神は、悪いことに、「私の大嫌いなあいつ」のことさえ愛し、憐れむ神です。このような神を信じるのは、並大抵のことではありません。私たちは、自分と自分の愛する者を愛し、憐れむ神を求めます。「私」が憎む者を愛し、「私」の敵を憐れむ神など、誰も望みません。

2002年に、横田めぐみさんをはじめとする日本人が、北朝鮮の工作員によって拉致されたことが明らかになった後、日本国内での北朝鮮に対する憎悪は、一気に高まりました。対話のチャンネルはすべて閉じられ、経済制裁一本槍となり、北朝鮮、イコール悪の権化と見做されるようになりました。

そのような状況の中で、ある日本人農家の方が、ひもじい思いをしている子どもたちのためにと、北朝鮮に米を送り続けました。この方は、北朝鮮に家族や親戚がいたわけでも、友人がいたわけでもありません。ただ、お腹を空かせ、ひもじい思いをしているであろう子どもたちへの憐れみの心から、米を送り続けたのでした。ほとんどすべての日本人が北朝鮮の破滅を願っている中で、敵に米を送り続けたこの方は、凄まじい批判と誹謗中傷を浴びることになりました。

私たちが誰かを、憎むべき存在であり、滅ぼされるべき存在だとみなす時、その相手にとっては、私たち自身が憎むべき存在となり、「滅ぼされるべき存在」となることに気づきません。こうして、憎しみと報復の連鎖が生まれます。憎しみが憎しみを呼び、報復が報復を呼びます。そのような中では、平和は戦いと戦いの「合間」としてしか現れません。憎しみと報復の連鎖の中に、本当の、永続的平和は訪れません。

イエス・キリストが語り、私たちに託された「神の国の平和」は、憎しみと報復の連鎖を断ち切るところで生まれる平和です。この平和は、まったく新しい神のイメージと結びついています。

イエス・キリストが示された神の前では、「私」が「憎むべき者」も、「私」が「破滅を喜ぶべき相手」もいません。「私」が憎み、滅びを願う相手は、「神の愛と憐れみ」の対象であり、「私」が滅びを願う者がいたとしても、神はその人が滅びることを喜ばれません。

このような神の姿を私たちに示されたイエス・キリストが、私たちに命じます。

「愛と憐れみの対象にならないと思われている者を、愛と憐れみの対象にしなさい。「私たち」の中に入らないと思われていた者を、「私たち」の中の一人として迎えなさい」と。

もし私たちが、「どのようにすれば、罪人を愛し、憐れまれる神様を、人々に示すことができますか」と主に聞いたなら、きっとこんな答えが返ってくるのではないでしょうか。

「ひもじい思いをしている子どもたちを思い、北朝鮮に米を送り続けた、あの日本人農家の方のように、あなたたちもなりなさい」と。