大斎節第1主日 説教

2022年3月6日(日)大斎節第1主日

申命記26:5-11; ローマ10:8b-13; ルカ4:1-13

今朝の福音書朗読は、いわゆる「荒野の誘惑」の箇所で、毎年、マタイ、マルコ、ルカと福音書が変わっても、大斎節第1主日には、必ず「荒野の誘惑」の箇所が読まれます。

「荒野の誘惑」という日本語訳がすでに市民権を得て定着していますが、私は「試み」という言葉の方が、テキストの語っている内容に照らしてふさわしいと思っています。

今日の箇所は、「しちゃいけないことをするようにそそのかされたのに、禁欲を貫き通したイエス様の自制力は素晴らしい!」と言っているのではありません。

身体に根差した欲求が充足を求めるのは当たり前のことです。欲求があるのは、そこに命があるからです。身体を持って生きる存在として神が私たちを造られたのならば、その身体に根ざす欲求を「悪しきもの」としたり、否定したりすることは、神の創造の業を悪しきものとし、否定することです。

人が空腹を覚えた時に食べ、渇きを覚えた時に飲むことを否定すべき理由はどこにもありません。イエス様が断食の後に空腹になり、目の前に落ちている石をパンに変えて食べたとしても、そこに悪いことは何一つありません。

今日の「荒野の試み」の箇所を根拠に、神を試みることは許されていないと言われることがありますが、聖書の中で、神の態度はそれほど一貫してはいません。神が、「わたしを試みてはならない」と言っている場面もありますが、士師記 6:36-40には、ギデオンが神を試みる場面もあります。

神はミディアン人と戦う勇者としてギデオンを選びますが、彼はその言葉を疑います。そこでギデオンは、神の言葉が本当かどうか確認するために、二度に渡って神を試みます。しかし神は、ギデオンに向かって、「わたしを試みるとはけしからん!」とは一言も言っていません。

マラキ書3章10節では、神ご自身がこう言っています。

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。」

「荒野の試み」は、「イエス様は悪魔の試みに対して、聖書の言葉で反撃しました。だから私たちも聖書をよく読み、悪魔の攻撃に打ち勝ちましょう!」、そう私たちに教えているのではありません。

むしろ今日のテキストは、私たちが生きるこの世界の中心に巣食う、根源的な問題を明らかにしています。パンと、国々を支配する権威と栄光、そして神殿。ここには、この世の経済と、宗教、そして統治・支配、つまり政治が、一つの全体として集約されています。

「6. 敵対者/悪魔は彼に言った。『この(国々の)支配権全てと栄光をお前に与えよう。それはわたしに託されており、わたしが望む者にそれを与えるのだ。7 それ故、もしお前がわたしの前にひれ伏すなら、すべてはお前のものだ。』」

ここでイエス様は、国々の支配権と栄光が、敵対者/悪魔の手に任されているということを否定しません。この世で権力を求めることは、本質的に、悪魔と手を組むことなのです。

世界を支配し、その支配を栄光で飾るために必要な第一のものは強力な軍事力です。悪魔と手を結ぶことによって手に入れる支配権と栄光は、暴力をその土台としています。だからこそ、支配を望む者たちは常に、より強力な破壊力と、より強力な殺傷能力とを求めます。

敵対者/悪魔は、イエス様をテストし、見極めようとして彼にに近づきました。悪魔は、ナザレのイエスが、支配と栄光を求める他の全ての権力者と同じように、自分と手を組むかどうかを見極めようとしているのです。

しかしナザレのイエスは、悪魔と手を結ぶことを拒否しました。神の国とこの世の国との本質的な違いが、ここにあります。

この世の国は悪魔と手を結ぶところで生まれるのに対して、神の国はこの世の神、悪魔と手を結ぶことを拒否するところで生まれます。ナザレのイエスは、この世の神である悪魔と手を結ぶことを拒否したが故に、この世の神から捨てられ、十字架につけられて殺されます。

十字架は、この世の神の力が、悪魔の力が、もっとも完全に現れるところです。しかしこの世の神、悪魔に見捨てられ、十字架の上で殺されたナザレのイエスを、愛なる神は見捨てられませんでした。

愛なる神が、悪魔との取引を拒否し、暴力を放棄し、ナザレのイエスに倣って生きるところに新しい共同体が、神の国が現れることを世に示す出来事。それがキリストの復活のです。

私たちがこの世の国に生きている限り、悪魔の力から逃れることはできません。それは冷徹な事実です。

私たちは悪の力から自由になっていません。悪魔は「私」の中にもいます。その事実から目を背けてはなりません。そして、悪魔と手を結んだこの世の権力者に「取り入る」ことで利益をあげようとする経済も、自らの影響力を高めようとする宗教も、暴力的に、悪魔的になることも知らなくてはなりません。

この事実を忘れたとき、この世からの栄光を求めた教会は、主イエス・キリストが退けたものをすべて受け入れ、どのような悪事をも祝福できる教会となりました。

私たちは、どのような残虐行為をも「祝福」できる教会の「伝統」を引き継いでいるのです。そして、私たちは今まさに、この世からの栄光と、この世での影響力を求めた教会の、悪魔的な姿を目の当たりにしています。

ロシアのプーチン大統領が、ウクライナに対する軍事侵攻を始めて10日目となりますが、この戦争の背後にはロシア正教会があります。

ロシア正教会のトップにあたるモスクワ総主教Kirillは、長い間、プーチン大統領にウクライナ侵攻を進言してきました。そして、実際にプーチン大統領がウクライナで軍事作戦を始めて数日後に、Kirillは、プーチン大統領による軍事侵攻を招いたウクライナの指導者たちを非難する声明を発表しました。

ヨーロッパ全土がウクライナに対するプーチン大統領の一方的な軍事攻撃を非難している中で、ロシアの軍事侵攻を支持ししている国があります。セルビアです。

1995年、セルビア軍はわずか数日間の間に、ボスニアのムスリムの男性と少年たち8千人を組織的に虐殺し、女性たちをレイプし、民族浄化を行いました。その時、セルビア正教会は、セルビア人民族主義のイデオロギーを支え、セルビア軍による虐殺を祝福しました。

ボスニアでの民族浄化を率いたムラディッチ将軍は、今でもボスニアの民族主義者たちの間で、「英雄」として讃えられています。そして、虐殺の指導者を英雄と語る人々が、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を支持し、プーチン大統領を讃えています。

残虐行為を正当化し、祝福するのは、何も東方正教会だけではありません。2003年にアメリカとイギリスが、ありもしない大量破壊兵器があると言ってイラクに軍事侵攻し、政権転覆を行った時に、Church of Englandの従軍チャプレンもそこにいて、兵士たちの作戦を祝福したのです。

この世のどこにも、教会が無条件に支持できる権力など存在しません。ましてや、教会が祝福できる戦争などありません。

ナザレのイエスが抵抗し、退けたもの。それはこの世の支配者の道です。彼は、暴力と威圧による支配と統制を拒否したが故に、この世の神、悪魔によって十字架に架けられました。

支配と栄光を目指すこの世の権力者が最も嫌うもの。それは、「暴力を嫌う者」です。戦争に反対する者です。だからこそ、クリスチャンは、暴力と威圧による支配と統制を退けた主イエス・キリストに従い、この世の支配者に対してゲリラ線を戦う用意が必要なのです。

今、新たに、聖霊が私たちを導き、ナザレのイエスが退けたものを退ける勇気と力を与え、神の国に対立するすべての伝統を乗り越えさせてくださいますように。