大斎節第5主日 説教

2022年4月3日(日)大斎節第5主日 イザヤ43.16-21; フィリピ3.8-14; ルカ20:9-19

今朝の福音書朗読で読まれた物語は、マタイ、マルコ、ルカ福音書のすべてに、ほとんど大きな違いがない形で出てきます。

イエス様はルカ福音書19章の後半部分でエルサレムに入りますが、エルサレム入りして直後に、神殿の境内で商売をする人たちを蹴散らし、追い出すという「暴挙」に出ます。祭司長、律法学者、長老たちは、「お前は一体何の権威でこんなことをしているのか。誰がこんなことをする権威を与えたのか」と詰め寄ります。

イスラエルの宗教と政治の最高権威はモーセの律法です。神殿は、モーセの律法によって、神への礼拝が献げられるべき、神への生贄が献げられるべき、唯一の場所ということになっていました。

イエス様の時代のイスラエルの人たちにとって、神殿は宗教と政治の中心でした。そして神殿は、世界中に離散しているユダヤ人からお金をかき集める、巨大な経済装置でもありました。

この話がピンと来なければ、イスラム教のメッカ巡礼の光景を想像してみてください。年にたった10日間だけカーバ神殿で行われる巡礼祭は、メッカに1兆円を超えるお金をもたらします。

イエス様の時代、エルサレムの神殿に仕える祭司たちは、そこで行われるすべての祝祭と犠牲祭儀を司るだけではなくて、神殿の境内で行われる経済活動も取り仕切っていました。

イエス様がエルサレム神殿の境内から追い出した商売人たちは、違法行為を行っていたわけではありません。神殿で行われるすべての事柄について、「権威」を持っているとみなされている当局者から許可を得て、そこで商売をしていたのです。

イスラエル社会で、「権威」を持っているとみなされている人たちから「許可」を得て、「正当に」商売をしている人たちを、イエス様が追い払う。それが意味しているのは、イエス様は、モーセ律法の権威にも、神殿の権威にも挑戦しているということです。

イエス様は、「お前は何の権威によって、誰から権限を与えられてこんなことをしているのか」という質問に、直接には答えません。しかし今朝の福音書朗読箇所は、権威の問いに対する、イエス様からの遠回しな答えです。

この話は、寓喩的な、allegoricalな物語です。寓喩的物語とその解釈との間には、暗号と暗号解読の関係に近いものがあります。物語の登場人物や舞台装置は一種の暗号のようなもので、背後に何か別のものが隠されているのです。

ぶどう園の持ち主は神様、ぶどう園はイスラエル、ぶどう園の持ち主が遣わす僕たちは預言者で、彼の息子はイエス様であり、農夫たちは律法学者たちや祭司長たちです。

物語の解釈に、難しい要素はほとんどありませんが、ここでイエス様が語っている内容は、挑発的どころの騒ぎではありません。今のロシアで、クレムリンの前に立って、「プーチン大統領はヒトラーと変わらぬ殺人鬼で、戦争犯罪人だ!」と叫ぶ。それよりも挑発的です。

律法学者や祭司長たちは、イスラエルの歴史の中に、預言者がいたことを知っていました。彼らは、自分たちの先祖は、預言者の警告に耳を傾けなかったがために、神から裁きを受け、捕囚の辱めを受けることになったのだと思っていました。

だからこそ彼らは、自らを聖く保ち、神の裁きではなく、祝福を受ける者になろうとしていました。そして、そのための道は、モーセの律法の「権威」の下で生きることだと信じていました。しかし、今朝の福音書朗読の物語は、イエス・キリストの権威は、律法から来るのでも、神殿から来るのでもないことを宣言しています。

ではイエス様の権威とは何でしょうか?それはどこから来るのでしょうか?ナザレのイエスが父なる神の息子だと語ることは、イスラエルの民に対して、ただ神のみが持っている絶対的権威が、そのままイエスに委ねられているということです。

この物語は、ナザレのイエスの権威が神から直接来ていると言うのと同時に、律法と神殿の権威を、人間的権威に格下げしています。これは、律法と神殿の権威を力の源泉としているイスラエル社会の指導者にとっては、絶対に受け入れられない話でした。

メッカのカーバ神殿の前に立って、「神はカーバ神殿への巡礼など望んでいない。カーバ神殿は強盗の巣だ!」と叫ぶ、その人をどんな運命が待ち受けているか、皆さんも容易に想像できるでしょう。

イエス・キリストが十字架にかけて殺されることになったのは、彼の権威が、モーセの律法から来るものでも、神殿から来るものでもなかったためです。

イエス・キリストの十字架が示しているのは、この世の支配者、この世で権威を持っていると思っている者たちは、自分たちの権威を否定する者を決して受け入れることはできない、という現実です。

私たちクリスチャンは、この世の支配者が、この世の権威が、決して受け入れられないような方を「主」と呼び、この主に忠誠を尽くす者として、この世で生きているのです。これは私たちに、大きな挑戦を突きつけます。

私たちは誰も、この世の権威から完全に自由になって生きることはできません。実際、日々の生活の多くの場面で、私たちはこの世の権威が定めたルールに従って生きています。そして、「キリストへの忠誠」を放棄するようなことを求められない限り、この世の権威が定めたルールに従って生活していて良いわけです。

しかし、クリスチャンが、この世の権威と直接対決しなければならないような場面が訪れることがあります。それは、この世の権威が、私たちのアイデンティティーを支配しようとするときです。この世の権威が、誰が味方で、誰か敵かを定め、敵を殺すことを要求する時です。

そのような場面に遭遇した時、教会はこの世の権威と対決し、「私たちが忠誠を尽くすのは、主イエス・キリストに対してです」と言わなくてはなりません。

ロシアのプーチン大統領がウクライナで始めた戦争を、私も皆さんと同じように、痛みと悲しみをもって見つめています。私にとってもっとも大きな悲しみは、この戦争の背後にある、教会の失敗です。この世の権威であるプーチン大統領に戦争を勧め、そして戦争を祝福する教会の失敗です。

教会がこれほどの失敗を犯すことになったのは、教会のアイデンティティーが、クリスチャンのアイデンティティーが、この世の権威に乗っ取られ、キリストへの忠誠が骨抜きにされたからです。

クリスチャンには、主であるイエス・キリストを十字架にかけて殺そうとするような敵ですら、殺すことが許されていません。教会を守るために敵を殺すことも、共同体の仲間を守るために敵を殺すことも、私たちは主から禁じられているのです。

しかし、アイデンティティーがこの世の権威によって乗っ取られ、キリストへの忠誠が骨抜きにされた教会は、神の国の家族同士が「敵」となり、殺し合うことを「普通のこと」だと思うようになりました。

そのような過ちの中に、教会が容易にいざなわれていった。この歴史的事実は、クリスチャンも「敵を滅ぼしたい」という誘惑から自由ではないということを教えています。

「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」

この言葉には、福音書が書かれている時代の教会がすでに、対立する主流派ユダヤ人の滅びを願っていたことが現れています。

暴力に満ち溢れた時代に、神の国の平和を現す共同体になる。これほど挑戦的で、これほど想像的なことは他にありません。

敵の滅びを願う私たち。その事実と向き合いながら、今朝も主が私たちのうちに送ってくださった助け主、聖霊の導きを祈り求めましょう。

敵にさえ恵みを注ぐ愛なる神を示された主イエス・キリストへの忠誠を、どうか私たちの内に、堅く保ってください。アーメン