






2022年4月10日(日)復活前主日/受難の典礼
イザヤ45.21-25; フィリピ2.5-11; ルカ23:1-49
今日は大斎節の最後の日曜日、復活前主日です。この日はPalm Sunday、「棕櫚の日曜日」とも呼ばれます。
聖マーガレット教会では例年、11時からの聖餐式の前に、教会の1階ホールに集まります。そして、一人ひとりが棕櫚の葉や棕櫚の十字架を手に持って、讃美しながら2階の聖堂に上がって行きます。
こうして、イエス様が人々に熱狂を持って迎えられる、エルサレム入場の場面を再現するところから、この日曜日は棕櫚の主日とも呼ばれるわけです。
ところが礼拝が進んで、福音書朗読まで来ると、直前までのお祝い気分が一気に吹き飛びます。
「棕櫚の日曜日」の典礼は、あえて、イエス様のエルサレム入場を熱狂で迎え、裁判の場面で手の平を返したように「十字架につけろ!」と叫ぶ民衆と、私たち自身を重ねるように作られています。
このようにして、民衆を通して現れる人間存在の闇を、私たちに追体験させようとしているわけですが、この礼拝の中で、憤慨とまではかなくても、苦々しい思いを持たれる方もおられるかもしれません。
自分が民衆の一人だというのは認められるとしても、なんの犯罪も犯していない人間を十字架につけて殺せと言うほど極悪じゃない。多くの人が、そう思ったとしても、何の不思議もありません。
しかし、そこにこそ、イエス様を十字架の上で死なせることになった、世の闇の本質があります。
「十字架につけろ!」と叫び、イエス様を十字架にかけるために協力した民衆は、イスラエルの人口の9割を構成する「普通の人々」です。
「十字架につけろ!」と叫ぶ民衆は、羊飼いのいない羊のようだと言って、イエス様が深く憐れむ人々です。「十字架につけろ!」と叫ぶ民衆は、イエス様がパンを割いて、満腹になるまで食べさせた人々です。「十字架につけろ!」と叫ぶ民衆は、イエス様が病を癒し、悪霊を追い出した人々です。
そして、イエス様が裂いて与えたパンを食べて満腹になり、イエス様が病を癒し、悪霊を追い出すのを見た普通の人々は、イエス様の追っかけとなって、イエス様の周りに押し寄せました。
しかし、その「普通の人々」が、イエス様の抹殺を企てる祭司長、長老、律法学者たちの最も強力な協力者になります。
祭司長、長老、律法学者たちは、民衆から搾り取り、彼らを貧しさの中に捨て置き、生きることすらままならない状態にしている人たちです。しかし、その民衆が、自分たちを虐げ貧しくしている者たちの、サポーターとなる。そこに「世の闇」があります。
同じことが、今のロシアでも起きています。プーチン大統領がウクライナへの軍事侵攻を開始した直後には、主に都市部で、反戦運動も見られました。
しかし、ウクライナへの軍事侵攻後、プーチン大統領に対するロシア民衆の支持は、下がるどころか、大幅に上がっています。プーチン大統領への支持は、優に80パーセントを優に超えています。それはロシアの情報統制のなせる業だと思うかもしれませんが、残念ながらそうではありません。
先週には、情報統制のないドイツに暮らす多くのロシア人が、プーチン大統領支持の大規模パレードを繰り広げました。
英国には60のロシア正教会の教会がありますが、そのどれ一つからも、プーチン大統領に対する批判の声は上がっていません。むしろ、プーチン大統領がウクライナへの軍事侵攻に踏み切れたのは、民衆の圧倒的な支持があることを知っていたからです。
私たちは今現在、「普通の人々」の、民衆の中に現れる、世の闇を見ているのです。
「普通の人々」、民衆は、数は圧倒的に多くても、コミットメントのない、利己的個人の集団です。神様は民衆を憐れみ、イエス様も民衆を憐れみます。しかし利己的個人の集団に過ぎない民衆は、自分たちを貧しくし、自分たちを抑圧し、そして自分たちを使い捨てにする「力ある者」に、簡単になびきます。
民衆の暮らし向きは、いつの時代にも、「力ある者」によって大きく左右されます。そのため民衆は、「力ある者」の側につけば、自分を守ることができる、「安全だ」と勘違いします。しかし、「力ある者」の側について、イエス様を殺すことに協力したユダヤ人の多くは、「力ある者」と共に、ローマ軍によって滅ぼされました。
悲しむべきことですが、ウクライナでの戦争の後、今のロシアの体制は早晩に滅びるでしょう。そのプロセスの中で、プーチン大統領を支持した民衆も、大きな苦難を味わうことになるでしょう。
それでは、私たちはどうすればいいのでしょうか?神様は私たちに、何を求めておられるのでしょうか。
神様は、「普通の人たち」の中から、「力ある者」声ではなく、イエス・キリストの声に聞いて、彼に従って生きようとする弟子たちの集団を作り、この弟子集団を、神の国のしるしにしようとしておられます。
この弟子集団には、「この世の力」はありません。この弟子集団は武装しません。だからそこ、とても傷つきやすいコミュニティーです。
しかし、この傷つきやすいコミュニティーのメンバーは、同じ主人に仕え、主人に与えられた使命を生きようとします。そこには、この世にはない喜びと、この世には見出しえない平和が現れます。世が知らない喜びと平和。これこそが世の闇に輝く、希望の光となります。
願わくは、独り子であるイエス・キリストを世に与えてくださった神が、私たちを「力ある者」の声ではなく、イエス・キリストの声に聞き従う弟子集団として成長させてくださいますように。